コミュニケーションを阻害するものは?

人の活動のすべて多かれ少なかれプロセス間通信である。他人との関わりの有無によらず、人の行為は何らかのプロセスの一部もしくはそのものであり、他のプロセスとメッセージ交換を行いながら為される。他のプロセスとのインターフェースは共通のプロトコルにより保証される。共通のプロトコルに基づいていても、公開されているメソッドにしかアクセスできない。

人の活動はすべて多かれ少なかれコミュニケーションである。他人との関わりの有無によらず、人の行為は何らかの体系の一部もしくはそのものであり、他の体系と意思あるいは伝達信号を交わしながら為される。他の体系との接点は共通の使用言語あるいは前提条件により保証される。使用言語あるいは前提条件を共有していても、それらを表明しなければコミュニケーションは成り立たない。

同じように見える言葉でもプロトコルによっては別の意味を宿す。自分にとって正しいメッセージであったとしても、相手とプロトコルが異なれば、正しく伝わらない。さらに、プロトコルが同じでも通信を拒否されれば、やはり伝わらない。

コンピュータと違い、人のメッセージは伝わるための条件を揃えていても伝わらないことがある。


同じように思っている人は心地よく聞き入れる。そうでない人にとっては居心地が悪い
ブラックボックスである脳ミソの動きをいかに視覚的に捉えるか

準備の先にあるものは?

理論があって「実戦」がある。完璧な(あるいはそれに限りなく近い)理論は存在し得ても、完璧な「実戦」はあり得ない。「実戦」は常に偶然をはらみ、不測の事態を引き起こす。それがプラスになることであれ、マイナスになることであれ、準備の範囲の外にある。

失敗の教訓から学べることは、プラスは外へ、マイナスは中へ、という姿勢である。援軍に期待せず、内乱を警戒する。援軍は来ないのだ、という前提における援軍が「援軍」であり、内乱など起こるはずがない、という希望的観測下で勃発する内乱が「内乱」である。

「援軍」にしても「内乱」にしても、それは「実戦」モードにならないと有効にならない。火災が起きたときに閉まるシャッターは、火災が起きたときには閉まるものだ、という期待によって「援軍」になる。閉まらなかったときに「内乱」がやってくる。「閉まらなかった場合」を想像できる人が失敗から学んだ人であり、準備の範囲が人より広い。しかし、いくら広げていっても、準備は準備の範囲にとどまる。

どんなに鍛錬しても、準備が上手くできるようになる以上の上達はない。


前に進むために
苦労とは何か?

あなたの「残高」はプラスかマイナスか?

例えば、現在目的を持って活き活きと仕事に取り組めている人の「残高」は多い。しかし、今だけはとりあえず何とか調子良くやってはいるが、今後どうなるか見通しがはっきりとしていない、という人の「残高」は少ない。マイナスになっているかも知れない。

数字として明確に把握することはできないが、生きている限り日々の営みを通じて自分の「残高」は変動している。「残高」を直接コントロールすることは難しいが、その存在を意識することはできる。

「価格」とはまた別で、「残高」の変化は「価格」の値動きとはリンクしていない。「価格」が高くても、「残高」がマイナスである場合もある。人は「残高」ではなく「価格」を見て値踏みされるから、「価格」ばかりに目がいきがちである。

「価格」は攻撃力であり、「残高」は体力(あるいは最大ヒットポイント)である。強力な武器を持てば「価格」は上がるかも知れないが、「残高」は変わらない。新技術を身につければ「価格」は上げられるが、顧客の信用は別の次元で変動している。「残高」はいつの間にか貸越になっていたりする。

今やっているのは「残高」を増やす活動だろうか? それとも、取り崩す活動だろうか?


時は、いっさいのものをゆっくりと破壊する

あなたの「残高」はプラスかマイナスか?

例えば、現在目的を持って活き活きと仕事に取り組めている人の「残高」は多い。しかし、今だけはとりあえず何とか調子良くやってはいるが、今後どうなるか見通しがはっきりとしていない、という人の「残高」は少ない。マイナスになっているかも知れない。

数字として明確に把握することはできないが、生きている限り日々の営みを通じて自分の「残高」は変動している。「残高」を直接コントロールすることは難しいが、その存在を意識することはできる。

「価格」とはまた別で、「残高」の変化は「価格」の値動きとはリンクしていない。「価格」が高くても、「残高」がマイナスである場合もある。人は「残高」ではなく「価格」を見て値踏みされるから、「価格」ばかりに目がいきがちである。

「価格」は攻撃力であり、「残高」は体力(あるいは最大ヒットポイント)である。強力な武器を持てば「価格」は上がるかも知れないが、「残高」は変わらない。新技術を身につければ「価格」は上げられるが、顧客の信用は別の次元で変動している。「残高」はいつの間にか貸越になっていたりする。

今やっているのは「残高」を増やす活動だろうか? それとも、取り崩す活動だろうか?


時は、いっさいのものをゆっくりと破壊する

能力が高い人とは?

会社にいた頃、上にも下にも「能力が高い」と感じられる人がいた。

上司だったAさん。ある日、Aさんが外出先から社に電話をかけてきた。「私のかばんの中に書類があるから、それを探して中身を読み上げて欲しい」という指示を受けた。「一番外側にあるジッパー付きの仕切り以外はどこを探しても良い」と付け加えられた。日頃から自分のカバンの中をオーガナイズしているということに感心した。

同じく上司だったBさん。夏場の暑い時期に背広を脱いでワイシャツ姿でいる時でも腕まくりは絶対にしない、と言っていた。腕まくりをすると自分の品格が落ち、ひいては顧客に提供するサービスの質も下がる、という思いからだという。もちろん、腕まくりをしたからと言って具体的・数値的に何かが変わるわけではないが、そういう姿勢も“商品”の一部だという考え方は同感だった。

後輩だったCさん。自分の担当する仕事がオーバーフロー気味になってしまったため、Cさんに一部を任せた。担当外の仕事にも関わらず、「自分で考えて」取り組んでいた。「このプログラムはこのアルゴリズムで作るとパフォーマンスが落ちるのでこういう風にしたい」などのように提案を通して言外の要求まで汲み取ろうという姿勢が感じられた。

能力が高い人は、言葉ではなく行動でそれを表現する。しかし、行動はしかるべきタイミングを外せば意味が無くなることが多い。しかし、タイミングは多くの場合、予測できない。そこで、予測できないタイミングに対応できるようにするために、まずは予測できるタイミングに完全に対応できなければならない。

例えば、締め切りは確実に守る。他から与えられる締め切りばかりでなく、自分自身で設定した締め切りも同様である。有事に正しい判断ができるか否かは、判断を下さなければならない「次の瞬間」という締め切りまでの間にしかるべき行動ができるかどうかで決まる。部下に自分のカバンを探させる場面は予測できないかも知れないが、いつそうなってもいいように備えておくことはできる。そういう必要が生じることを想像できれば、これに対応することは他から与えられる締め切りではなく、自分で設ける締め切りである。

人は締め切りとの闘いの中で能力を高めていく。


人を突き動かす最も本質的な要素

自動処理は便利か?

メーラーやスケジュール管理ソフトなど毎日のように使うアプリケーションはパソコンの起動時に自動的に立ち上がるように設定されていることが多い(この機能はWindowsでは「スタートアップ」と呼ばれる)。「このソフトは便利だ」ということであれもこれも起動時に立ち上がるようにしていくと、パソコンを起動するたびに大量のアプリケーション・ウィンドウで画面が埋め尽くされることになる。しかし、すべてのアプリケーションを毎回使うわけではない。メールチェックのためだけにパソコンを起動するということもあるし、ちょっとしたことをインターネットで検索したい、という場合もある。毎回フルボリュームでパソコンを使用するとは限らない。

例えば、インターネット検索のためだけにパソコンを起動した場合であっても、同時にメーラーが立ち上がれば「ついでにメールチェックもしておくか」ということになる。そして、そこで何か重要なメールが届いていれば恐らくその場で対応を迫られるだろう。かくして当初の目的であったインターネット検索は横に追いやられてしまう。確かに、後から割り込んできた「メール処理」の方が重要なのかもしれないが、それ以上に当初の目的を優先しなければ行き当たりばったり度が高まってしまう。

行き当たりばったりが悪だとは思わないが、行き当たりばったりで、仮にうまくいってしまうと、それが成功体験として脳に刻み込まれてしまう。予定を立てて行動するという習慣への評価が下がる。「予定なんか立てなくてもうまくいく」というモラルハザードを招きかねない。

パソコン起動時に立ちあがるアプリケーションの多さは使用者の主体性と反比例する傾向があると思う。目的なしにパソコンに向かうとパソコンのなすがままになりかねない。

今日は何のためにパソコンを起動したのだろうか?


意図的にマンネリに入り込む
届いても読まないのなら届かなくても状況は変わらない

お金持ちだから幸せなのか、幸せだからお金持ちなのか?

外に現れてくるものは、数値化可能な能力と情熱の混合物。どちらかが欠けてもうまくいかない。結局、能力の差はほとんどない。あるとすればそれは情熱の差。

情熱は、意志あるいはビジョンから生まれる。例えば、

「戦禍で傷ついている人たちの心をいやしたい」
「車椅子を使う人にもっと快適な環境を提供したい」
「コンピュータを活用することで、高品質なビジネスと快適な生活を多くの人に届けたい」

ミッションステートメントとも言える。例えば、企業における理念、哲理。そこから生まれる戦略。具体的な戦術。日々の瞬間瞬間のアクションはビジョン無しには成し得ない。一時的には何とかしのげても、しのいだ先に惰性と誘惑が待っている。ビジョンがなければ、前例や人の言葉に頼ってしまう。

有名になれば注目され、何かと話題にされ、多くの人々の中に自分のキャラクターがたまる。その結果、「あの人はあーいうことをする人だ」というブランドが確立する。一度確立してしまったブランドの修正は難しい。自分のブランドなのにそのブランドに縛られてしまう。

ブランドは意図的に大々的に確立していくもの、という面がクローズアップされがちだが、むしろ日々の活動の中で着々と築かれていくものである。例えば、野球場の広告。一度出したら簡単には引っ込めることができない。もし引っ込めれば「あの会社は危ないのではないか?」と思われかねない。業績が悪化し始めてもがんばって契約金を払い続けなければならない。これを見越して球場側は契約金をつり上げる。すなわち、ブランドに縛られる。

「ブランド駆動」は外部委託なのに対し、「情熱駆動」は自家発電。周りから何と言われようが、持ち上げられようが、批判されようが、自分の信じるところの情熱を燃やしながら生きることができる。そういった情熱を見つけられた人が幸せである。情熱を見つけられた人は多くの場合、お金持ちになる。お金持ちになって幸せになったのではなくて、幸せになったからお金持ちになったのかも知れない。