「わかってから」はやってこない

いつの間にか、ピーマンを食べられるようになった。

年をとるにつれて食の好みが変わったとか、ピーマンを実にうまそうに食べる人を目の当たりにして考え方を改めたとか、きっかけや理由を探ろうと思えば探れるような気はする。でも、ここで問題にしたいのは、食べられるようになったことそれ自体である。何がどうあれ、今、現実としてピーマンが食べられるのだから、それでいいじゃないか、と思いたい。

いつか誰かに「ピーマンが苦手なら、こういう風にすると食べられるようになるよ」と勧める日のために、苦手のピーマンを克服する方法を一般化しておくことも有意義かも知れない。だが、人の好みは個人的な問題なので自分に合った方法が人にも適合するとは限らない。従って、いつの間にか食べられるようになった、という以上の追究はあまりなされない。

人は何か失敗をしでかすと「次は気を付けよう」ということで得られた教訓を身体にたたき込む。しかし、久々に読み返した本や前触れもなく甦る記憶の中に、いま身体にたたき込んだばかりの教訓がすでに存在していることに気づくことがある。

頭では「わかっていたはず」なのに、実際の行動には移せない自分を痛感する瞬間。「もうするまい」「次はこうしよう」と決意したことを昨日のことにように思い出す。失敗しまいとして知識や理論で武装しても、現実の実践には活かせない。「わかっていたはず」ということでもそれを行動として外部にリリースできなければ結局わかっていないのと同じことではないか。

「わかりました」という返事は、だから、疑わしい。そんなに簡単にわかってたまるか、と思う(いちいち疑わないけれども)。

こうすればピーマンが食べられる、という方法がわかっていたとしても、目の前に出てきたピーマンの丸焼きを実際に食べられないのであれば、その知識は死んでいる。わかっているより、実際にできる方がいい。できる人はできるからこそわかるのであって、わかっているからできるわけではない。わかっていなくてもいいから、できる人の方がカッコいい。できないくせにわかっていると言う人は確かめられないのでカッコいいかどうかはわからない。

「そんなにできるのに、こんなこともわかってないの?」と言われるとシャクだしカッコ悪い。だから勉強する。言われてからでも遅くない。むしろ言われてからの方がモチベーションが高まる。誰しも最初はできもないしわかりもしない。つべこべ言わずに、まずは、ピーマンに箸をつけよう。

いつの間にか、わかることとできることとの溝が深くなってしまった。


わかっちゃいるのに、何で、やってしまうのか?
能力が高い人とは?
いろいろなことができるようになるには?
パターンに集中する
何を身につける?


会社を辞めてからすごくお世話になった人がいた。その人は会社を辞めて独立をしていたのだが、昨日半年ぶりぐらいにメールをしてみたら、今は「しがない普通の会社員」として「雌伏中」とのレスが来た。何だかわけもなく悔しい。「雌伏」の後には「雄飛」が来ますよ。

ある意味「嫌なヤツ」

最近、NHKスペシャル「変革の世紀」という番組を見た。そこで言われていたことは、今後はピラミッド型組織からネットワーク型組織へと変化していくだろう、ということ。そして、ゆるやかな組織という枠の中で個人が集まって必要に応じて自発的にプロジェクトが立ち上がり、終われば解散して再び別のプロジェクトに参加していく、というスタイルであった。

本当にそれがうまくいけば素晴らしいことだと思ったが、現実問題を考えるとなかなか簡単にはいかない。

これまでもいくつか「プロジェクト」に参加したが、十人十色のカラフルな人間が集まっている状況ではまず各々のモチベーションの維持が問題になる。参加メンバーそれぞれが自分の役割を強く意識していなければ、「プロジェクト」はすぐに破綻をきたす。

いや、すぐに破綻をきたしうるところにこそ「プロジェクト」の良さがあるような気がする。

従来の組織の中には、組織であるという理由だけで破綻を免れている例も見受けられる。数百億円もの赤字を垂れ流しながら存続が許されるというのはよくよく考えてみると不思議なものだ。まずければ淘汰され、まずくなければ生き残る。淘汰されるコストがあまりに高ければ、する方もされる方も及び腰にならざるをえない。

「プロジェクト」は作るのも壊すのも簡単で、しかもその結束はカネではなく人のモチベーションに依るところが大きいから、これまでとは順番が逆になる。すなわち、縁の切れ目がカネの切れ目、である。

簡単にはいかないのが、カネである。番組で紹介されていた事例では、世界各国のメンバーがネット上で議論を交わしながら研究を進めていくのだが、疑問に思ったのは各メンバーの報酬はいったい誰がどのように決めるか、ということだった。そして、誰もが納得するような金額に落ち着きうるのだろうか。

2月に参加した「プロジェクト」では、報酬は定量的な仕事量と定性的な貢献度に応じて支払われた。個人的にはその金額は満足だったが、不満が残ったメンバーもいたに違いない。金額を決定した人間は、「プロジェクト」のリーダーだったのだが、詰まるところこの人間に対して上手にアピールできれば高い報酬が得られることになる。仕事はできるのにアピールや交渉が下手な「いい人」は生き残ることができない。

いかに相手に不快を感じさせずにガッポリもらうかという技術が知らず知らずのうちに身につく。会社の中で人間関係に気をもんでも給料は増えないが、「プロジェクト」の中ではそれが大きなカギになる。

ある意味「嫌なヤツ」にならないとやっていけないのかも知れない。


バーチャルだけで仕事ができるか?


ちなみに、2月の「プロジェクト」は残念ながら破綻プロジェクトでした。書籍は出版されることはなく、リーダーはメンバーに支払いっぱなし。やっぱり人数が多すぎましたかね。リーダーの思いがメンバーにきちんと伝わってなかったみたいだし。でもまぁ、「プロジェクト」がこけたところで引責辞任や債権放棄があるわけでもなく、実にあっさりと「次、行こ、次!」という感じで新しい「プロジェクト」を立ち上げ続けるリーダーは尊敬に値します。

毎日ちょっとずつ重要なことに取り組む

どんな人であれ「今やっていること」は、緊急なことか重要なことのいずれかである。すぐに対応しなければならないことかじっくり考えなければならないこと、である。

緊急なことは重要なことに比べると負荷が小さく着手が簡単なことが多いことから、放っておくと人は緊急なことばかりをやるようになる。

緊急なことに追いまくられているという状況は重要なことに手をつけられないことに対する都合の良い言い訳になりうる。今日中に仕上げなければならない仕事は1年後のビジネスプランを作成することをさしおいてでも仕上げなければならない。正しい。しかし、間違っている。この正しくて間違っていることを我々はよくわかっている。ただ、わからないふりをして何とかごまかしている。

緊急なことは得てしてやりがいがあっておもしろい。そこには人間関係があり、期待と反応があり、刺激に満ちている。

重要なことはたいてい手応えがなくつまらない。孤独で平坦でのっぺりとしている。やってもやらなくても結果はすぐには出てこない。

しかし、当然のことながら今を優先して先をないがしろにする毎日は、やがてやってくる先に影をもたらす。

そこで、例えば一日の9割が目の前の緊急なことで忙殺されていたとしても、残りの1割の時間は重要なことのために確保するよう努めてみる。言い換えれば、この1割の時間は自分にとって本当に重要なことだけを考えるようにして、9割の時間は緊急なことに没頭する。

重要なことは重要なことをこの1割の時間にだけ集中して考えるようにすることである。さもなければ、9割の緊急なことにも身が入らなくなってしまう。1日は24時間あるが、そのうち睡眠(6時間)や食事(1時間×3)を差し引いた15時間の1割、すなわち90分間を重要なことのために費やす。そんな習慣を身につけたい。

緊急なことは「消費活動」であり、重要なことは「生産活動」である、とも言える。「在庫過剰」で「生産調整」が必要である人はまれであり、たいていは「品薄」状態で「自社生産」できず、仕方なくあり合わせのものを「外部調達」して何とか今をしのいでいるのではないだろうか。そこに自社の「経営理念」は存在しない。

日々の自分の「消費活動」を振り返れば、どんな「生産活動」が必要かがおのずと見えてくるはずである。さっそく「生産計画」立案に着手することにしよう。


勉強する気にさせるには?
一日三回寝る理由


自戒を込めて...。

反省の準備

先日、某銀行の通帳記入をしたら同一明細が2行印字されて返ってきた。二重引き落とし、である。

たいした額ではなかったし、残高にも余裕があったのでさして気にもとめなかったが、銀行の口座情報というのは絶対に信頼のおける、間違いのないものなのだ、という「思い込み」は早々に改めなければならないと痛感した。

よくよく考えてみれば、通帳に並んでいる数字もコンピュータシステムを介しているというだけで間接的ながら人が作ったものに過ぎない。入試問題や国会答弁や落丁乱丁と何ら変わらない。今まで間違いが起こらなかったのが不思議だとさえ思う。必然は偶然の積み重ね、である。

コンピュータは常に人の指示通りに正しく動く。今回の一連の騒動は「人災だった」とされているようだが、コンピュータの不具合というのは、結局のところ人の指示ミスに起因するものが大半なのであって、改めて「人災」と呼ぶのは少し違和感を覚える。

「想定されるテストと運用はすべてやった」という一言がすべてを物語っている。「想定できないことが起こったから仕方がない」という言い訳、あるいは言い逃れに聞こえる。「これが私たちが想定できるところの限界でした。これ以上は無理です。だから責めないで下さい」という自己弁護である。

人は経験によって前進するが、経験によって前に進めなくなることもある。例えば、成功体験は自信と勇気を与えてくれるが、同時に「思い込み」という重い(思い)鎧もついてくる。

行き当たりばったりにやっても、うまくいくことはある。しかし、うまくいかなかったときに、行き当たりばったりでは、なぜうまくいかなかったのかを検証することができない。「やっぱり、行き当たりばったりではいかんよね」と大雑把に反省するのが関の山である。これでは次に繋がらない。

反省するにも準備が要る。反省の実体は、自分の中の「思い込み」を改めることである。反省は結果に対して行うものだが、結果的に行うものではない。結果が出るまでの過程でその材料を拾い集めておく必要がある。

今、自分を支配している「思い込み」にはどんなものがあるだろうか。日々の「業務開始」の前に一通り点検しておいた方がいいかも知れない。


みずほのトラブルの原因に迫る!
準備の先にあるものは?
前に進むために
変わる前に変える


「かわいそうなのは一番上(責任者)と一番下(被管理者)。両者ともわけが分からず責任を追及されたり、文句を言われたり、徹夜を強いられたりする。真ん中(管理者)の人たちはわけがわかっている分だけ一歩リード」
「ここでも主導権争いが!」

真剣勝負の挑み方

最近、右手首が腱鞘炎になった。恐らくキーボードおよびマウスの使いすぎが原因かと思われる(他に思い当たる原因がない)。そういえば、常日頃から腰や背中はコリまくっているし、肩や腕はいつでも重い。そんなわけで、一通り診てもらうべく同業者の紹介でカイロプラクティックとやらに「修理」に出してみた。

慣れた手つきで身体のあちこちを押され撫でられ揉まれ砕かれ、思わず声を上げたりしながら「デバッグ」が終わった。どうやら根本的な「作り直し」が必要らしく、今後も継続的に通うことになった。具体的には「バックボーン」に問題があるらしく、ここを集中的に「メンテナンス」していくことになるらしい。矯正枕という「パッチ」もあてがわれた。

SEとかプログラマーという「人種」によくありがちな症状だそうだが、改めてコンピュータ漬けの毎日を振り返るにつけ、今さらながら自分も「生」であることを痛感する。

さて、次回の予約を入れてもらって帰路に着いてからふと考えたのだが、カイロプラクティックに限らずこういった「予約」を取って仕事をしている人というのは、予約を受け入れた瞬間から自分の未来のある一点を束縛されることになる。「何月何日の何時から何時まで」という正確に限定されたタイミングに「自分」が必要とされる。逆に言えば、その時間が来るまでは必要とされることはない。日頃どんなにぐうたらに過ごしていても、そのタイミングだけ真剣勝負で仕事に挑むことができれば必要を全うできるわけで「本番に強い人」には打ってつけかも知れない。

もちろん、日頃の精進があってこそ瞬間の真剣勝負でスパークできるという考え方もあるだろうが、「日頃」と「瞬間」との間に因果関係を見いだす努力はペイしない。人は同じ体験をしても、うまく行った時は「成功体験」と称して怪気炎を上げ、うまく行かなかった時は「この失敗を教訓に」と自らを戒める。ところが「成功体験」は繰り返されず、「失敗の教訓」は活かされない、ことが多いことは周りを見回してみればよくわかる(だからこそ、誰にでもチャンスがあり、やりがいがある)。

一方、締め切りまでに求められる成果を上げることをコミットした上で仕事に取り組む、例えばライターのような仕事は、「予約仕事」と一見似てはいるがその実、非なるものである。

日頃どんなにぐうたらに過ごしていても誰からも文句をつけられないところは変わらないが、締め切り時点で求められるものを提供できていれば良いというところが決定的に違う。

締め切り日よりもずっと前に納品しても問題はない。気分が乗っているときや仕事が空いた暇なうちにさっさと原稿を仕上げてしまうこともできる。途中で風邪を引こうが旅行に行こうが、先に仕事が終わっていれば何も問題はない。「コミット仕事」の方が束縛はずっと少なく、真剣勝負を挑むタイミングは自分のコントロール下にある(だからこそ、現実逃避という甘美な誘惑が存在し、後日徹夜で苦労する)。

真剣勝負には大まかに言って2種類ある。「コミット仕事」が“我田引水”なら、「予約仕事」は差詰め“彼田放水”というところか。仕事はいかに“水”をコントロールするかにかかっている。自分がどちらの真剣勝負が得意なのかをわかっていなければ、どんなに自分の好きなことを仕事にしていたとしても、いずれ破綻がやってくる。


マイ・セオリー
何を身につける?
その壁は行く手を阻むのか、身を守るのか?
デバッグ
バックボーン
パッチ


「毎日のようにコンピュータに晒されている人は一度“デバッグ”してもらうのも悪くないかも」

「バグが出ないのはおかしい」

以前、開発中の大規模システムと同時進行でそのシステムのマニュアルを作っていたことがあった。かつてはシステムを作る側にいたこともあったが、今となってはその傍らでせっせとマニュアルを作ればいいので気楽だった。まぁシステム開発もそれはそれでおもしろい仕事ではあったけれど。

大規模なシステム開発プロジェクトは、ゼネコンのごとく下請け・孫請けが連綿と続く、責任の所在があいまいになりがちな体制で行われることが少なくない。今回の案件もこの例に漏れず、下請けになればなるほど緊張感が薄れていく。しかし、下ばかりが悪いわけではない。上だってよくなかった。

特に一次請けが最悪だった。最悪を通り越して滑稽でさえあった。例えば、毎週プロジェクトの進捗ミーティングが行われるのだが、午前10時に始まって昼を挟んで午後4時まで続くこともざらだった。各社からマネージャクラスの人間が参加して、根ほり葉ほり進捗状況を聞かれる。「なぜ予定より遅れているのか?」とか「こんな状態で品質を担保できるのか?」といった、ほとんど取り調べのような追及を延々と受ける。

ミーティングの前日ともなると、進捗資料やスケジュール修正などで徹夜になることが多かったようだ。冷静に考えれば(考えなくても)、そんなことをしている暇があったらプログラムを1本でも2本でも作っている方がよっぽどましだと思うのだが、誰も気づかない。あるいは気づかない振りをしている。マネージャクラスの人間だけに人件費だって相当なものだったに違いない。

そんな中で一次請けのプロジェクトマネージャ(一番えらい人)が言い放った一言が今でも忘れられない。システムの運用試験について、バグ(不具合)がゼロ件だったという報告を聞いた彼は、すかさず「バグが出ないのはおかしい。テストのやり方がおかしいのでは?」と質した。

一堂唖然としたが、誰も反論はできなかった。する気も起きなかったと言うべきか。最初は必ず一定数のバグが出て、以後テストと改良を重ねていく過程で徐々にバグの発生件数が減っていき、最終的に収束する、という美しい、理想的な、教科書に載っていそうな「曲線」が彼の頭の中に描かれていたようだ。

その後、そのシステムは実際の業務で使われることなく葬り去られ、「再構築」という名の下に再び下請け・孫請けが集められた。歴史は繰り返される。掘られた穴は埋められ、また別の穴が掘られようとしている。しかし、こんなことはいつまでも続かない。いずれ「バグ」が出て気づく。「やり方がおかしいのかな?」

そう、バグが出ないのはおかしい。


「とりあえず生きてます」

やりたいことを問い直す

気づくと仕事ばかりしている。物欲はとうにない。モノや服や音楽やテレビや映画や気のおけない人間関係や、そういったものが、仕事に浸かっているとすべて灰色に見えてくる。それが良いとは思わないが、でも悪いとも思わない。悪いとも思わないところがすでに灰色である。

やっぱり良い仕事は「健康で文化的な最低限度の生活」から生まれるような気がする。灰色な人の書いた文章など誰が読みたがるだろうか。特に陰鬱な文章を書いているつもりはないが、文章というものは書いている人間のムードを継承する。それは言葉選びに始まって、文体や言い回しに影響し、結論を左右する。

体を壊して会社を辞めて、ぼちぼち一人で仕事をし始めてみたら、思いのほか「やっていける」ようなので、どんどん仕事を増やしていくうちに気づいたら会社を作って身動きが取れなくなり、いずれまた体を壊すことが目に見え始めてきた今、ちょっと立ち止まってしまった。

やりたいことだけをやれればそれで幸せかというと、どうもそうでもないような気がする。それは今やっていることがやりたいことではなくなりつつあるからかも知れない。そもそも、やりたいことなんてそう簡単に決められるものではないのだ。

やりたいことをやれている(ような気がしている)うちに、本当にやりたいことを問い直し続ける。立ち止まってしまってからではちと重い。


今やっているのは「やりたいこと」か、「やらなければならないこと」か?
その10年間は本当に無駄だったのか?
「やりたいこと」は、やってくる
やりたいことは見つかるか?
自分を生きるか、他人を生きるか?


「枠や束縛がないというのは、それはそれで意外としんどかったりする」
「そういえば、かつて某お寺の入口に以下のような一節を目にしましたっけ」

夏になると冬がよいという
冬になると夏がよいという
狭い家に住めば広い家に住む人がうらやましいという
広い家に住めばこじんまりとした狭い家がよいという
独身の頃には早く結婚したいといい
結婚するとやはり独身時代が気楽だったという
それじゃどこにも幸福はあるまい
汝は自分勝手に不幸を作っているのだ
“喝”