見つからないのはなぜか?

探しようがないものの1つに「自分」がある。見つけた、と思っても本当にそれが探していたものなのかどうかを確かめる術がない。

自分の中をいくら探しても見つからない。自分の中ではなく、常に相手と自分との間に見い出される。それは静的ではなく、常に動いている。

「自分」を探してもなかなか見つからないのはそのせいかも知れない。



人は生まれながらにして使命を帯びてこの世に現れる


「“探す”という言葉を使うからいけない」
「急に何かを思いつくことがあるけど、あれは何もないところから急に思いつくのではなくて、今までもあった何かに改めて気づくことなのだと聞いたことがある」
「探すのではなく気づく」
「気づいたら探していたりして」
「そういう自分に気づく」

人はなぜカッコをつけたがるのか?

コンピュータは常に冷静だが、人は高揚したかと思えば落胆し、加速すれば息切れもする。コンピュータは決められたことはきちんと実行するが、あまり融通は利かない。人は(ある程度)融通は利くが決められたことを簡単に破る(ことがある)。

このように「カッコ」を付けなければ格好が付かないのが人である(あるいは、外からの攻撃から身を守るために付けているのかも知れない)。

「カッコ」を付けない文章は堂々と闘っているようで何だか格好いい。



「じゃぁ、格好悪い文章はさしづめカッコばかり付けてる、カッコだらけの文章ってところか」
「でも、カッコの使い方が良い文章は“カッコ良い”と言えるかも」
「カッコだけはね」

自分を生きるか、他人を生きるか?


学校の先生も銀行員も商社マンも、本当に自分がやりたいのは、いわゆる先生、銀行員、商社マンじゃない。自分ブランドの先生であり、銀行員であり、商社マンだろう。だいたい、今、この世の中にあるもの全ては、自分達よりも前に生まれてきた他の誰かが作り上げたものじゃないか。ある時期、あるところでそういうことを仕事にしてみたいと思った他の誰かがそれを今ある形のものに作っただけに過ぎない。
ニューヨーク在住・N氏(経営者・29)


誰かが作ったテンプレートを生きるのか、自らテンプレートを作るのか。「自分」というのは世界に1つしかないテンプレートのようなもので、誰もが「自分」という生きるテンプレートを世に問う可能性を秘めている。

やりたいこと、というのは、すでにあるものの中から選ぶのではなく、自分で見つけたり作ったり、後から「これだったのか」と振り返って気づくものだと思う。テンプレートの存在自体は自分では気づきにくいのかも知れない。映画「フォレスト・ガンプ」で、ひたすら無心に走り続ける主人公がふと振り返ると、後ろには大勢の人が付き従って走っている、というシーンが思い出される。

与えられた選択肢の中から選ぶことにすっかり慣れてしまっている。選択肢から外れることは非常に抵抗を感じる。何かやろうと思っても、やる前から出鼻をくじかれたり、芽を摘まれたりもする。新しいことや人がやっていないことをやるのは勇気が要る。でも、他人を生きるのもそれなりの勇気が要ると思う。一緒に他人を生きてくれる人がたくさんいるという違いはあるにせよ。

そういえば、長嶋茂雄氏の職業は「プロ野球選手」ではなく「長嶋茂雄」なのだとか。



「テンプレートは便利だよねえ、毎回一から作らなくて済むから」
「でも、時には一から作ってみて、より良いテンプレートに改良していかないと。みんながテンプレートを使い始めたら、誰もテンプレートを作らなくなっちゃう」

読んでもらえる文章を書くには?

文章を書くことの難しさの1つに「読んでもらうこと」がある。せっかく書いても読んでもらえなければ虚しい。もちろん、書くことそれ自体が何かの慰めになったり、書かずにいられないこともあるが、文章を書くことのとりあえずの到達点はやはり、誰かに読んでもらうこと、だと思う。

読んでもらうために読者の目を引くテクニックはたくさんある。でも、テクニックの多くは「一見客」を集めこそすれ、顧客化までは保証しない。テクニックを使って100人の人々にさらりと読んでもらうより、1人の人にじっくり読んでもらう方が、書きがいがある。書き手冥利に尽きる。

仕事で原稿を書いていてつくづく思う。「書かないといけない」というプレッシャーを意識し始めると、途端に書くこと自体が目的になって「やっつけ仕事」の様相を呈し始める。そういう原稿はほとんど例外なく駄作になる。相対的な駄作。自分では納得がいかない。そのようにして追いつめられた状況で書かれた文章はどことなく収まりが悪くキレがなく読者の心にリーチできない。

必要なのは「何としてもこのメッセージを伝えたい」という思いではないだろうか。それがなければ文章の輪郭はぼやけていく(そのぼやけ具合に味がある場合もあるが、そのコントロールは容易ではない)。メッセージが伝わらなければ書き手の手元には何も残らない。

読んでもらうことは、読者から何かを「もらう」ことなのかも知れない。


なぜ、難しいのか?


「でもある程度はプレッシャーがないと書けないわけで」
「プレッシャーというよりリズムだね。メトロノームのような」
「なるほど、プレッシャーは他人から受けるものだけど、リズムは自分でも作り出せるわけだ」

いろいろなことができるようになるには?

文武両道、才色兼備、多芸多才。いろいろなことができる人は、たいてい「いろいろなことをするとおもしろい」「おもしろいからいろいろやる」と言う。「おもしろい」からのめり込む。本人はあまり深くは考えていないが、考えていないからこそ、のめり込むことができる。周りに気兼ねしない。我を忘れて取り組む。そこに迷いはない。意図はあっても意識はない。

だから、知らず知らずのうちにいろいろなことができるようになる。そういう人を目の当たりにすると、人は「見習いたい」「自分もかくありたい」と思う傾向がある。少なくとも刺激を受ける。触発されたり、インスパイアされもする。

でも、見よう見まねではのめり込むところまではいかない。型はできても中身ができない。型は目に見えても中身は目に見えない。中身は、自分で見つけるほかはない。

人から「これ、おもしろいよ」と薦められた本を読むとき、その推薦者と同じ「おもしろさ」を感じるという保証はない。むしろ推薦者と異なる「おもしろさ」を発見できる方が「おもしろい」。「おもしろさ」は、自分で感じるほかはない。

「おもしろい」の原点は人それぞれ異なるはずで、いろいろなことをするにしても自分の原点さえ外さなければ、のめり込むことができる。のめり込んでいるからこそ「野菜を売ろう」という発想が生まれたりする(どう評価されるかはまだわからないけれど)。原点を見つけるには、自分でやってみるほかはない。

分野を広げることは、接点を増やすことであって、原点を増やすことではない。いろいろなことができる人は、1つの確(核)たる原点を中心にしてその周りにたくさんの接点を持っている人。


今やっているのは「やりたいこと」か、「やらなければならないこと」か?
その10年間は本当に無駄だったのか?
日頃の模索


「結局、いろいろやっているように見えても、実体は1つということが多いわけで…」
「見せ方の妙ってこと?」
「使い方の妙。やってみたらそれまで見えていなかった用途に気づいたりして」

なぜ、難しいのか?

仕事でも遊びでも、難しいと感じられるものはその不規則性に原因があると思う。簡単だと感じるのは「ワンパターン」だからであり、難しいと感じるのは「一筋縄」では行かないからである。

対象に規則性が認められたとしても、その適用パターンが無数にある場合は、やはり難しい。囲碁はルールがきちんと決まっているのに、打ち方は無数にあるから難しいし、プログラミングは制約や規約がかっちり定義されているのに、その組み方は組む人に委ねられているから難しい。

でも、世の中に難しいことがなければ、人は生きがいを失う。起伏がなくなる。毎日が不規則で変化に富んでいるからこそ刺激的でやりがいも生まれる。「毎日」は本来難しい。

「毎日」が簡単になったら生き続けるのは難しくなる。


頭が明るくなる
パターンに集中する
なぜ、気づかない?
正しい選択をするためには?


「この3連休で大々的にサイトの仕組みを見直そうと思ったのに、できなかった」
「『大々的』にやろうとするから結局何もできないんでしょう」
「一度作った仕組みを壊すのは難しい。とりあえずロゴのリ・デザインとかそういう小手先のことはやったけど」
「なんかそれ象徴的」

文章は長い方がいいか、短い方がいいか?

文章は長くなればなるほどその文章のイイタイコトが曖昧になっていくような気がする。詳しく書けば書くほどわかりにくくなる。短くても「すっ」と頭に入って来て、しかも離れない文章もある。何でこの短さで、こんなによくわかるんだろうと感心することも少なくない。

ここまで書いてから「要するに短い文章が良いのだ」と言いたげな自分の気持ちに気がついた。そうじゃない。無条件に短ければ良いということにはならない。長くても「読ませる」文章もある。「読ませる」文章は読者をぐいぐい引っぱっていき、読者をして「終わって欲しくない」「もっと読みたい」とさえ思わせたりする。長くなければ伝わらないメッセージもある。

文は人なり」と言われることがあるが、その通りだと思う。「文章を読めば、書いた人のことが伺い知れる」ことに頷いているのではない。そうではなくて、文字通りの「文も人だなあ」という「文 is 人」の関係に納得する。人は見かけによらない、話してみないと、つき合ってみないとわからない。文章も同じで、実際に読んでみないことにはわからない。人は先入観と偏見の支配から逃れることはできない。

とりあえず1回はナナメではなくまっすぐに付き合ってみる。そうしないと相手のことを誤解しかねない。まっすぐ向き合っても誤解することがあるのに、ナナメ読みできっちり真意を汲み取れるはずがない(真意を汲み取る、ということがどういうことかはとりあえず置いておいて)。

でも大方の読者はそんなに気長ではない。時間も限られている。途中まで読んで「こりゃ(自分が求めているものとは)違うなあ」と思えば、即座に読むのをやめる。それなりの信用とブランドが読者の中に溜まっていなければ長文を読んでもらうというパーミションは得られない。

それにしても、読んでもらわないことには先に進まないし、昨日書いたように書く文章が長くなるほど「水」のコントロールが難しくなり、時間がかかり、続かなくなるのは目に見えているので、とりあえずは短い文章を今は書いている。でもそれは問題の先送りであって、もっとコンセプトを明確にして他にはないような情報を発信していかないといけないんだろうなあ、と思ってはいる。思っては、いる。

長くなりそうなのでこのへんで。


文章を書けるかどうかと学歴とはあまり相関関係がないと思う
文章を書くことでお金がもらえるのはなぜか
どんな読み手にも誤解なく伝わる完全な文章というものは、
過去に自分が書いた文章は残しておいた方がいい
文章というのはとてもごう慢な表現手段だと思う


「情報ってのは結局人についてまわるものだから、人を軸に整理した方がいいんじゃないの?」
「そうだね、情報は情報としてそこにあるんじゃなくて、人を媒介として伝播していくからね。」
「それ、なんかウィルスみたいだなあ」