閃きはどこに消えた?

閃いたときは「これは素晴らしいアイディアだ」と思っていたのに、文章にしてみたら実にしょうもないことだった、ということはよくある。

文章を書く、ということは頭の中にある「閃き」の水をバケツリレーで外に運び出すことだと思う。当然、リレーが長くなれば途中でこぼれたり不純物が紛れ込む可能性が高くなるわけで、文章の巧拙はこのバケツリレーのうまいへたにほかならない。

誰も汲み取ってくれない。自分で汲み出さないといけない。しかし、意識しすぎると汲み出すことそのものにとらわれる。順序正しく整然と、衒(てら)わず気負わず装わず、バケツリレーをしていることを当の本人が忘れてしまうくらいの無心でなければ、「閃き」は外に出て行かない。

書くべきテーマが閃いて文章を書き始めると、目の前に具体的な文字列の世界が広がる。いま書いた文と頭の中にある「閃き」とがぴったり一致しているかどうかを確かめる術はない。それどころか、目から入ってきた刺激が「閃き」を変容させることもある。書いたそばから文章は独り歩きを始め、書いた本人に別の新たな「閃き」をもたらす。書き終えたところで、できあがった文章が果たして最初に閃いたテーマ通りのものであるかはもはや自分でも確かめることはできない。

書いてみたらしょうもないことだった、のではなく書いている途中でバケツの中身がからっぽになってしまったのである。誰もが頭の中は素晴らしいアイディアでたっぷんたっぷんしている。ただそれをうまく運び出せない。時折、うまく汲み出せたりもする。

文章は「水物」である。


制約を設けて文章を書く

取り替え可能?


例えば、雇用保険を受けるには週20時間以上の勤務が必要となる。これとは別に健康保険に加入するには正社員の4分の3以上の労働時間が求められる。両者の条件が一律ではないため、パートの中には働き方により雇用保険に入れるものの、健康保険には加入できないケースも出てくる。

では適用される権利を把握するにはどうしたらよいのか。全国一般東京一般労働組合の広松栄香さんは「雇い入れ通知書など文面での確認を徹底するのは基本。企業に義務づけられている」という。

ただ、現実には派遣やパートといった非正規雇用の場合、個人も仕事の確保を優先しがち。冒頭のA子さんも業務請負契約に疑問を持ちつつも契約打ち切りを怖れ、質問を切り出せなかった。パートの契約時でも、働く側から雇い入れ通知書の発行を言い出せない現状もある。

日本経済新聞 2001年9月25日・夕刊


「あなたでなくても、代わりは他にたくさんいる」と言われることほどショックなことはないと思う。調整がかんたんでコストも安いとなれば、じゃんじゃん使おう、となる気持ちもよくわかる。使うことには異議はない。その使い方に目を凝らす。

働く側にしても、日々「調整」の影におびえながら「何とか仕事を分けてもらっている」という態度でいるのもどうかと思う。ますます「取り替え可能な部品」への道を究めてしまう。

会社にいた頃、上司がよく言っていた言葉は今でも自分の中に息づいている。「お客様にとって、なくてはならない存在になる」。顧客にとって「なくてはならない存在」になれれば、すなわち「取り替え不能なオリジナルサービス」を提供できれば、仕事はやってくる。というより、顧客の中からある意味勝手に仕事を掘り出してきて「これ、やりましょうか」と言っているような状態になる。

今の立場は「取り替え可能」だろうか?


覚悟はできるか?
意味のある残業時間を増やすためには?

人生うまくいっているか?


国際コンペでは勝利の数の何倍もの敗北も味わってきた。だが「負けも勉強になる」と負けを気にしない。それどころか、コンペでの負けっぷりを「連戦連敗」と題した本にまとめた。「人の成功物語なんか聞いても面白くない。人生うまくいかないから面白い」
日本経済新聞 2002年1月7日・夕刊 安藤忠雄氏(建築家)


いつかテレビで見た楽天社長の三木谷浩史氏の言葉を思い出す。

「まだ成功していない」

「成功しているベンチャー」「eコマース成功の秘訣」「ブランド戦略が成功の鍵だった」などに見られる「成功」はすべて他人の勝手な評価であり、多くは「成功」の途上である。「成功」と呼ばれるか否かの線引きはあいまいである。ただ、自ら「私は成功した」「私は成功者だ」などと言う人をあまり聞いたことがない。

自分は成功しているのだろうか? 人生はうまくいっているのだろうか? 自分が成功しているかどうか、あるいは人生がうまくいっているかどうかは自分ではわからないものなのかも知れない。

安藤氏は、大学で建築学を学ぶという常識にあえて逆らい、欧米を旅して著名な建築を自分の目で見て考え続けたという。誰かに答えを教えてもらうのは簡単だが、自分の中には何も残らない。自分なりの方法で考えて、その結果答えに辿り着けなかったとしても、自分の中にわずかでも残るものがあれば、それが「成功」のタネになるのではないか。

「人生うまくいっているか」という問いかけの裏には、「うまくいっていて欲しい」という願望が見え隠れする。「人生はうまくいくべきだ」という主張さえ感じられる。「人生がうまくいっている」とか「成功している」という状態には誰も到達できないのだろうと思う。

結局走り続けるしかない。



人は痛い目に遭わなければ、なかなか学習しない
「あれだけ努力したのに成功しないなんておかしい」

どこまで自分を追い込むか?


三洋電機が昨年6月に開発した「スポーツチームの戦術立案ソフト」。契約社員の村田祐造(26)が発案した。同社は昨年、新事業の種を持つ外部の若者に一年間働いてもらう契約社員制を導入。村田は9人の一期生の1人だ。

東大大学院で海洋工学を専攻、ヨットのアメリカズカップ「ニッポン艇」のスタッフも務めた異能。採用面接でソフト開発を提案、年収800万円で契約した。幸先のいいスタートを切ったが「一年契約だから毎年実績を出さないといけない」と覚悟する。

日本経済新聞 2002年1月6日・朝刊


業種や業務内容にもよるとは思うが、終身雇用を保証できないのならいっそ全社員を毎年更新の契約社員にしてしまった方がお互いにメリットが大きいと思う。企業側のメリットは言うまでもなくコスト削減だが、働く側は、むしろリスクが高まる。しかしそのリスクを補って余りあるメリットがある(このメリットは数値化困難ではあるが)。

人は身の安全が保証されると怠ける。ゆるむ。やわになる。危険があればそれを防ぐために努力をする。意図的に危険を作り出すことで自らを奮い立たせる。強くなる。競争優位に立つことができる。

そういえば、巨人の松井選手が昨年暮れに球団から総額40億以上の5年契約を示されながらも「一年一年が勝負」「来年は今まで通りで」と単年契約でサインしたことを思い出す。

企業はリスクを減らすことによって利益を確保し、傭兵はリスクを取って自らの腕を磨く。


「終身雇用」に期待できるか?
自分の意思で自らを束縛する
派遣会社の役割は?

自己修練か、自己実現か?


インターネットなど情報技術(IT)の普及で、忙しいワーキングウーマンでも余暇にもう一つ、仕事を持つことが比較的容易になってきた。しかし企業側は、そんな傾向に戸惑う。

一般に企業は、就業規則に正社員の「二重就職」を禁止する条項を盛り込んでいる。日本経営者団体連盟(日経連)によると、「勤務時間以外まで働いて疲労を残し、翌日の業務に支障が出ては困る。正社員は余暇は福利厚生など、勤務時間の労働以外も含めて会社に属するという考え方が前提にある」。

日本経済新聞 2000年8月30日・夕刊



例えば、複数の仕事を掛け持ちしているフリーターは自分で仕事の量をコントロールしている。ライターやデザイナーなども同様で、毎日の業務に支障が出ないようにやりくりしたり、あるいはある程度の支障を承知で仕事を請けたりしている。

支障は、仕事の捉え方によって異なる意味を持つ。仕事には2つの捉え方がある。1つは自己修練、もう1つは自己実現

どんな職業であっても、プロとしてやっていくからには一定の自己修練が要る。それがあって初めてプロとしての自己実現の道が拓かれる。十分な自己修練を経ずして「プロ」になった人はそれなりの自己実現にしか至れず、「こんなはずではなかった」と壁を感じることになる。ただ、自己実現には「これで十分」というラインがなく、それゆえに自己修練のリリースポイントもはっきりしていない。それゆえに、たいてい見切り発車になる。

自己修練における支障とは、修練の場を与えてくれている主体(企業あるいは取引先)との関係に傷がつくことであり、自己実現における支障とは、実現の過程で自分自身の心身信用に傷がつくことである。自己修練だと思えば耐えられる仕事があり、自己実現だからといって楽な仕事ばかりではない。

今やっている仕事は自己修練だろうか、自己実現だろうか。


人の生き方には際限がない

忙しい?


(1)急がずにはいられない。落ち着かない。
(2)ひまがない。用が多い。多忙である。
広辞苑


「お忙しいところ申し訳ありません」などと言われることがある。大半は社交辞令だが、言われる方は「ちっとも忙しくないのにー」と思うこともあれば、本当に忙しくて「まったくだ!」と言い返しそうになることもある。

「忙しい」の捉え方には2つある。1つは「ない」アプローチ。もう1つは「ある」アプローチ。

「ない」アプローチは、追われる忙しさ。時間がない、余裕がない、好きな仕事じゃない、睡眠時間が足りない、やってられない。一方、「ある」アプローチは、追い求める忙しさ。勉強する時間がある、予定がたくさんある、好きな仕事である、必要にして十分な睡眠時間がある、やりがいがある。

いま、追い求めているものは「ある」だろうか。


忙しければ規則正しい生活をせざるを得ない
睡眠時間を減らすには
眠ることも知的生産活動の一つである

失うことは無くなることか?

お世話になった23才年上の人と6年ぶりにメール交換をした。ふとその人の名前を思い出してネット検索をしたら、会社を作って独立していたので懐かしくなってメールを出した。「死」は確実にまっすぐにやってくるから、とにかく今自分がやりたいことをどんどんやっていくべきだ、とその人は繰り返し言っていた。当時はまだ学生だったが、今その時の日記を読み返すと当時は言葉でしかなかったことのいくつかが実現し、奥行きが生まれていた。

生きることは失うことである。「生」と「失」は字が似ている。「生」を足元から引き裂いていくと「失」になる。形あるものはいつかは壊れる。生まれたものは確実にまっすぐに死に向かって突き進む。

生きていれば、常に何かを失う。日々何かを失いながら生きている。何も失わずに済むのであればそれに越したことはない。しかし、人は失うことによって学習し、喪失から逃れるために努力をする。何も失わないとなれば、人は努力をしなくなる。

失って初めてその大切さに気づくこともあるが、失って初めてその無意味さに気づくこともある。

失ったものと得たものとでバランスシートを作ってみるとよくわかる。失うことは無くなることではなく、形を変えることだと思う。すなわちバランスシート上から消えることはない。

この一年でどれだけのものを「失った」だろうか。