勉強する気にさせるには?


わたしは今、何を勉強すればいいんですか?
公文教育研究会のテレビCMより


NHKの「中学生日記」を見ていたら、同じようなことを言う中学生たちが登場していた。何人かの中学生の放課後を密着取材を通して紹介していた。

例えば、ある男の子はダンスに夢中で放課後の勉強時間はゼロ分。「勉強して何の役に立つのか教えて欲しい」。また、ある女の子は特に自分でやりたいことが見つからず、放課後は友だちとお菓子を食べながらのおしゃべりや携帯メールのやり取りで過ごす。家族団らんの夕食の最中も携帯メールを打っている。部屋に戻ってからも携帯で友達と延々と話し続けて一日が終わる。「こうして毎日が過ぎていく」と淡々と語る。

そうかと思えば、別の女の子は放課後、まっすぐ帰宅して自室に入った途端に勉強を始める。夕方5時過ぎの早めの夕食もそこそこ塾へ出かけ4時間の授業を受講。夜10時半に帰宅後、休む間もなく再び勉強を開始、深夜2時まで机に向かう。

目の前にあることは「緊急なこと」と「重要なこと」の2つに大きく分けられる。ダンスやおしゃべりは、相手がいたり、時間や場所が決められていることから、今やる、すぐ対応する必要がある、という意味で「緊急なこと」である。一方、勉強は、今すぐやらなくても数ヶ月後の定期試験、1,2年後の入学試験、数年後の就職活動、10年後の収入金額、に長期的にじわじわと効いてくる、という意味で「重要なこと」である。

「勉強しないと偉い人になれないぞ」というようなことを言う親がいる。それは勉強と「重要なこと」との連関を子供にアピールする試みではあるが、それは恐らく正しいのだろうが、「緊急なこと」の前ではあまりにも無力である。あまりにも遠い。子供たちが欲しているのは「今すぐ何が得られるのか」である。そのために「今、何をすればいいか」を求めている。それに対して、大人たちはすぐに答えを用意していないだろうか? 求めればすぐに答えが得られる状況は子供たちの想像力を減衰させ、そして退化させる。

模範解答のない世界で生きていくためには答えの出る世界を体験しておく必要がある。答えの出し方を知っているからこそ、答えの出せない状況を受け入れることができる。繋がっている。

手段はどうあれ、自分でその繋がりに気づく必要がある。そのプロセスを勉強と呼ぶ。


知識など、生き方のなんの足しにもならない