やりたいことを問い直す

気づくと仕事ばかりしている。物欲はとうにない。モノや服や音楽やテレビや映画や気のおけない人間関係や、そういったものが、仕事に浸かっているとすべて灰色に見えてくる。それが良いとは思わないが、でも悪いとも思わない。悪いとも思わないところがすでに灰色である。

やっぱり良い仕事は「健康で文化的な最低限度の生活」から生まれるような気がする。灰色な人の書いた文章など誰が読みたがるだろうか。特に陰鬱な文章を書いているつもりはないが、文章というものは書いている人間のムードを継承する。それは言葉選びに始まって、文体や言い回しに影響し、結論を左右する。

体を壊して会社を辞めて、ぼちぼち一人で仕事をし始めてみたら、思いのほか「やっていける」ようなので、どんどん仕事を増やしていくうちに気づいたら会社を作って身動きが取れなくなり、いずれまた体を壊すことが目に見え始めてきた今、ちょっと立ち止まってしまった。

やりたいことだけをやれればそれで幸せかというと、どうもそうでもないような気がする。それは今やっていることがやりたいことではなくなりつつあるからかも知れない。そもそも、やりたいことなんてそう簡単に決められるものではないのだ。

やりたいことをやれている(ような気がしている)うちに、本当にやりたいことを問い直し続ける。立ち止まってしまってからではちと重い。


今やっているのは「やりたいこと」か、「やらなければならないこと」か?
その10年間は本当に無駄だったのか?
「やりたいこと」は、やってくる
やりたいことは見つかるか?
自分を生きるか、他人を生きるか?


「枠や束縛がないというのは、それはそれで意外としんどかったりする」
「そういえば、かつて某お寺の入口に以下のような一節を目にしましたっけ」

夏になると冬がよいという
冬になると夏がよいという
狭い家に住めば広い家に住む人がうらやましいという
広い家に住めばこじんまりとした狭い家がよいという
独身の頃には早く結婚したいといい
結婚するとやはり独身時代が気楽だったという
それじゃどこにも幸福はあるまい
汝は自分勝手に不幸を作っているのだ
“喝”