締め切りまでに書き上げる

日々、人は何を問われているのだろうか。何も問われていないのだろうか。問われていると思うのは思い込みだろうか、あるいは強迫観念か。仕事なのかそうでないかはあまり関係がない。それは便宜的な切り分けに過ぎない。

仕事でも仕事でなくても締め切りまでに原稿を書き上げる、ということをこれまで何度も経験しているが、いつも最初は「本当に書けるだろうか?」と疑問に思いつつ、それでも何とか書き続けている。どうしても書けないときはあっさり諦める。中途半端に書くくらいなら書かないほうがましである。

文章を書く、ということはかなり個人的な作業である。誰にも協力を仰げない、あるいは仰ぐ必要がない、あるいは仰がなくて済むから気が楽である。どれだ。どれかだ。どれでもいい。どれでもない。すべての要素が自分のコントロールの下に置かれる。自分でどうにでもなる。あるいは自分でどうにでもなり過ぎるところが逆にプレッシャーになる。それにしても、どうにもならないと文句を言うくせにどうにでもなってもやっぱり不平が募るとは、つくづく人は勝手だと思う。

最終的に原稿を書き上げるまで見通しというものが立たない。構想、構成、ネタ探し、執筆、推敲という一応のプロセスのようなものはあるが、その境界線は非常にあいまいである。しかも、各プロセスの間を行きつ戻りつするので一体今は予定通りなのか遅れているのかがさっぱりわからない。ネタはあるが書き出しが決まらず進まないこともあれば、書き出したものの着地点が見えなくなって止まってしまうこともあるし、着地点だけが浮遊したまま何日も日が過ぎていくこともある。

かと思えば、何の前触れもなく突然望ましい書き出しを思いついたり、うまいたとえ話が浮かんだりして急に筆が進むこともある。自分でやっているのにいつ思いつくか、いつ浮かぶか、その法則性がつかめない。

文章に完成はなく、時間があればあるだけ読み返して手直しをしたいと常々思う。でも、締め切りがあるお陰で「自分の能力はこんなもん」という諦観をもってその原稿にピリオドを打つことができる。それが仕事である場合、原稿の発注側には申し訳ない話だが、しかしそれ以上のものは書けないのだから仕方がない。黙って原稿を渡す。

自分で原稿についてどう思っていようが、相手は自分が提出する原稿でもってすべてを判断する。取り組み姿勢は一切問われることはなく、締め切りまでに要求水準通りの原稿をあげさえすればよい。逆に毎日朝6時に起きて一心不乱に原稿に向かって書き上げた原稿でも、テレビを見ながらだらだら綴った原稿でも、要求水準通りなら同じような評価を受けることになる。

こうして結果ばかりを見られながら生きていると、自分の生き方ではなく何か別のものを問われているような気がしてくる。まぁ、何を問われようと、あるいは何も問われていなくても、やるべきことは締め切りまでに書き上げることしかない。締め切りがないと始まらないし終わらない。

締め切りが要る。


能力が高い人とは?
成功体験の陶酔

朝型にシフトできないのはなぜか?

動物は夜更かしをするだろうか。多分、しないだろうと思う。

記憶は睡眠によって整理される。ここで言うところの整理とは乱暴に言えばシャッフルである。日中の活動で蓄積された記憶たちは夜になればシャッフルにさらされる。定着するか、あるいは永遠に失われる。その前に何とかつなぎ止めておきたい記憶をチョイスするために、人は日記を書いたり、人に語り聞かせたりする。書きたいことを書き、聞かせたいことを語って一日を復習する。もちろん、心に秘めて放っておく、というチョイスも「あり」である。

活動が深夜にまで及ぶと復習の時間が取りにくくなる。復習せずに寝てしまうと失うものが大きい。夜更かしするくらいなら、代わりに早起きしてやった方がいいのかも知れないが、記憶のチョイスはシャッフルの前にやらなければ意味が薄れるので、どうしても夜型から抜け出せない。

もちろん、復習の時間は生きる上では十分条件に過ぎない。なくても生きていく上では支障はない。生きるために必要なことは放っておいてもやるだろうから、人の生き方や方向性を決定づけるものは、こうした十分条件的活動の中にあるのかも知れない。

人と動物の違いは必要を超えて求めるか否かであり、超えた分だけ夜が更ける。


夜型か、朝型か?
復習の教祖


「“深く考えてますよね”というコメント(ひとこと)がよく来ます」
「深く考えることについて深く考えたことがないのでよくわからなかったりする」
「でも、深く考えようとすると逆にわからなくなることもありますよね」
「例えば、深く考えないという人のことがよくわからない。もっとも、わかるものではないのかも知れないけれど」

自分の弱さを克服するには?

分かり切ったことかも知れないが、自分の弱さというものは、それが露呈したときに強く意識されるものである。そしてその時があらゆる意味でチャンスの到来。

自分のことは自分が一番よくわかっているはずだが、わかっているトコロと実際のトコロとはぴったり一致しているわけではない。自分でもよくわかっていないトコロが世間に露呈していたり、自分ではわかっていてもみんなにはわかってもらえなかったりするトコロもけっこう存在。

自分の中でわかって欲しいトコロをわかってくれる人に人は好意を抱きやすい。逆に、わかっていても認めたくないトコロに鋭く斬り込んでくる人には人はあまり好意を抱けない。わかっていても認めたくないトコロというのは往々にしてはっきりと言葉として表出することができない、あるいはそれを避けているトコロであることが多いから、その認識はアバウトになる。その結果、そのような状況をもたらす相手に対する評価は「生理的に好きになれない」というような非論理的なものとなる。そこまでいかなくても「この人とは合わん」ということでそういう関係にはフタで密閉。

このことを仕事に適用するとややこしくなるが、仕事がややこしいのはナマ身の人が絡んでくるからであって、人の介在しない仕事はあり得ず、純粋に仕事そのものがややこしい、ということは稀有である。畢竟(ひっきょう)、仕事はややこしいものとして了承。

例えば、評価される以上の何かを仕事に見いださなければ、評価される仕事はできないという非対称。

さて、「生理的に好きになれない」お客さん、あるいはビジネスパートナー(以下パートナー)相手では自分の実力を発揮できないのかも知れない、というのは言い訳であって、好きになれないパートナーとの仕事で発揮できるの力が自分の本当の実力なのではなかろうか。協力的で楽しく仕事ができるパートナーとなら誰だってそれなりに高い成果を出せる。その成果は、自分の実力ではなく、パートナーの協「力」があってこそ得られたものだからである。もちろん、パートナーの協「力」が得られるようにパートナーを「その気」にさせるのも自分の力のなせる業であるから、他力本願だと一蹴してしまうのはちょっと待って保留。

楽しく気持ちよく仕事ができれば、成果もそれに見合うものに高められる可能性が高い。このような姿勢は同時に危機感が希薄な状態でもある。退路はもちろん進路も広々と開けているが、開けている分だけ弛緩し油断し危機感風化。

危機感とは、退路が断たれる予感である。進路を断たれる方がまだましである。進路はせいぜい選択肢の1つに過ぎないが、退路は1つしかない命である。そういう窮地に追い込まれてこそ、しかし、人は何かに気づいたり新しい局面を切り開けたりする。それまで気づかなかった、あるいはフタをしていた弱さが露呈。

弱さを直視。


退路があればどうしても油断する


「積極的に弱さを克服しなくてもいい、という考え方もある」
「進路を切り開いていく上で必要なら克服」
「ところで、本文、中途半端にラップ風」
「中途半端に押韻中」

自分の弱さを克服するには?

分かり切ったことかも知れないが、自分の弱さというものは、それが露呈したときに強く意識されるものである。そしてその時があらゆる意味でチャンスの到来。

自分のことは自分が一番よくわかっているはずだが、わかっているトコロと実際のトコロとはぴったり一致しているわけではない。自分でもよくわかっていないトコロが世間に露呈していたり、自分ではわかっていてもみんなにはわかってもらえなかったりするトコロもけっこう存在。

自分の中でわかって欲しいトコロをわかってくれる人に人は好意を抱きやすい。逆に、わかっていても認めたくないトコロに鋭く斬り込んでくる人には人はあまり好意を抱けない。わかっていても認めたくないトコロというのは往々にしてはっきりと言葉として表出することができない、あるいはそれを避けているトコロであることが多いから、その認識はアバウトになる。その結果、そのような状況をもたらす相手に対する評価は「生理的に好きになれない」というような非論理的なものとなる。そこまでいかなくても「この人とは合わん」ということでそういう関係にはフタで密閉。

このことを仕事に適用するとややこしくなるが、仕事がややこしいのはナマ身の人が絡んでくるからであって、人の介在しない仕事はあり得ず、純粋に仕事そのものがややこしい、ということは稀有である。畢竟(ひっきょう)、仕事はややこしいものとして了承。

例えば、評価される以上の何かを仕事に見いださなければ、評価される仕事はできないという非対称。

さて、「生理的に好きになれない」お客さん、あるいはビジネスパートナー(以下パートナー)相手では自分の実力を発揮できないのかも知れない、というのは言い訳であって、好きになれないパートナーとの仕事で発揮できるの力が自分の本当の実力なのではなかろうか。協力的で楽しく仕事ができるパートナーとなら誰だってそれなりに高い成果を出せる。その成果は、自分の実力ではなく、パートナーの協「力」があってこそ得られたものだからである。もちろん、パートナーの協「力」が得られるようにパートナーを「その気」にさせるのも自分の力のなせる業であるから、他力本願だと一蹴してしまうのはちょっと待って保留。

楽しく気持ちよく仕事ができれば、成果もそれに見合うものに高められる可能性が高い。このような姿勢は同時に危機感が希薄な状態でもある。退路はもちろん進路も広々と開けているが、開けている分だけ弛緩し油断し危機感風化。

危機感とは、退路が断たれる予感である。進路を断たれる方がまだましである。進路はせいぜい選択肢の1つに過ぎないが、退路は1つしかない命である。そういう窮地に追い込まれてこそ、しかし、人は何かに気づいたり新しい局面を切り開けたりする。それまで気づかなかった、あるいはフタをしていた弱さが露呈。

弱さを直視。


退路があればどうしても油断する


「積極的に弱さを克服しなくてもいい、という考え方もある」
「進路を切り開いていく上で必要なら克服」
「ところで、本文、中途半端にラップ風」
「中途半端に押韻中」

すれ違いが起きるのはなぜか?

考えてみれば当たり前のことだが、メールというコミュニケーション手段がとても手軽でリスクが低いということを思い知らされることがある。

同じ言葉でも、シチュエーションやその使われ方によっては正反対に取られたり、微妙なニュアンスの違いを生み出したりすることがある。多くの場合、それは普遍的なものではなく、個人差が激しい。生まれ育った環境や所属するコミュニティにおける言語体験の影響を強く受ける。

本来であれば、実際に会ったり電話で話すなどして、表情や声のトーンなど、ノンバーバル(非言語)な情報のやり取りが伴う。言葉だけが独り歩きするのではなく、ノンバーバルの抑制あるいは後押しによって多層的かつ立体的になったメッセージとして相手に届けられる。これによってお互いの心の内に少しずつ個性(「個」有の性向)が溜まっていく。

ところが、メールではそういったことがほとんどなく、ひたすらバーバル・コミュニケーションに終始する。言葉だけが堂々と独り歩きし、偏った見方、あるいは「観」が形成されていく。その結果、お互いの心のうちに相手の「ネット人格」(とでも呼ぶべきもの)が構築されていく。

会って話すのが難しければ、せめて電話でもいいと思う。電話をかけようとしたときに感じるプレッシャーの大きさで、自分がいかに「ネット人格」に依存しているかがわかる。「メールでなら言えるが、面と向かっては言えない」ということもあるだろうが、面と向かって言えないことをメールで言えたからといって、それはメールで言えただけに過ぎない。

脳は、本来の人格と「ネット人格」とを区別することができない。すれ違いはこういったところから始まるような気がする。


メールにするか、電話するか?
進めば進むほどアナログになっていく


「間があきましたね」
「ビジネスでは顧客との“ま”が大事」
「いやいや、“あいだ”です」
「顧客との距離ですか?」
「そうではなくて時間的に、ということです」
「返事はすぐに出すようにしています」
「…噛み合ってないようですので、会って話した方がいいみたいですね」
「これ、チャットだったのか!」

バーチャルだけで仕事ができるか?


「グループでデータ入力の仕事をしませんか」。神奈川県内に住むKさん(29、女性)が、インターネット上のSOHO関連のホームページの掲示板でメンバーを募ったのが一年半前。これに応えて約20人の女性が手を挙げ、Kさんが取引先から受けた仕事を、日程的に作業可能なメンバーに振り分ける形でグループワークがスタートした。受注の幅が広がることがメリットだと思っていた。

しかし、数カ月が過ぎたころから、その体制に疑問を持ち始めた。「10人を超える作業者がいると、どうしても『私一人くらい手を抜いても』とか『一日くらい納期が遅れてもいいや』という人が必ずでてくる」。実際に、作業ミスが原因で取引先を失ったというケースも数件発生。運営の難しさを感じたKさんは現在、グループワークとしての仕事を休止させている。

日本経済新聞 2002年2月5日・夕刊「競争激化のSOHO グループワークにきしみ」


インターネットは時間や距離を縮めるかも知れないが、ゼロにはできない。むしろ、あえて時間をかけて距離を歩む方がいい場合もある。

現在、メーリングリストを活用してグループで1冊の本の制作・執筆を進めている。このプロジェクト、数日前から始まったばかりだが、今のところは問題なく、所期のゴールに向かって進んでいる(感じがする)。

緊急出版のため、期間はわずか2週間。それだけに、全員のテンションが上がっている。これが1ヶ月だったらもっとだらけるだろうと思う。勤勉であるよりも怠けている方が楽ちんだ。

だが、それ以上に全員を駆り立てていることがある、と感じている。それは、このプロジェクトの発足当初に開いた全員顔合わせの企画会議の存在である。そこで実際に顔を突き合わせて、全員が相互に名刺交換をしあい、顔と名前が一致するくらい話し込み終えている。

確かに、掲示板やメールのやり取りだけでも仕事はできるかも知れないが、そこには決定的な何かが欠けてしまうような気がする。言葉だけでは伝わらないものがある。言葉だけでは人は動かない。

夜中の遅い時間にメールでデータが送られてくる。送っている人の顔を思い浮かべる。きっと眠そうな顔をしてキーボードに向かっているのだろう。そんなことを思ったり感じたりする。ちょっと情が動く。

やり取りしているのは「情」報であって、データではない。やり取りしている相手は人間である。そして、ともに作り上げるものを使ったり読んだりするのも人間である。純粋に機械のためだけに仕事をしている人はいない。

「私一人くらい手を抜いても」という気持ちは、画面の向こうが見えない(=見られていない)という錯覚から起きるのではないだろうか。


メールで気持ちは伝わるか?
正解、ないっす
体質
どこまで自分を追い込むか?


「いくら言葉を尽くしても、表情という圧倒的なバリエーションにはかなわない」
「バーチャルだけではバーチャルな仕事しかできないだろうね」

バランス戦略か、アンバランス戦略か?


S T R A T E G I C / 戦 略 性

戦略性という資質によって、あなたはいろいろなものが乱雑にある中から、最終目的にあった最善の道筋を発見することができます。これは学習できるスキルではありません。これは特異な考え方であり、物事に対する特殊な見方です。

ほかの人には単に複雑さとしか見えないときでも、あなたにはこの資質によってパターンが見えます。これらを意識して、あなたはあらゆる選択肢のシナリオの最後まで想像し、常に「こうなったらどうなる? では、こうなったらどうなる?」と自問します。このような繰り返しによって先を読むことができるのです。

そして、あなたは起こる可能性のある障害の危険性を正確に予測することができます。それぞれの道筋の先にある状況がわかることで、あなたは道筋を選び始めます。行き止まりの道をあなたは切り捨てます。まともに抵抗を受ける道を排除します。混乱に巻き込まれる道を捨て去ります。そして、選ばれた道──すなわちあなたの戦略──にたどり着くまで、あなたは選択と切り捨てを繰り返します。そしてこの戦略を武器として先へ進みます。

これが、あなたの戦略性という資質の役割です。問いかけ、選抜し、行動するのです。

マーカス・バッキンガム、ドナルド・O.クリフトン著/田口俊樹訳
さぁ、才能に目覚めよう』(日本経済新聞社) p.151


何にしても「ばっかりやる」のが大事だと思う。1つのことばっかりやっていれば、当然その分野に強くなる。言い方を変えれば、強みを伸ばすことである。弱点の克服に精を出しても、行き着く先は特徴のない平均的な目立たぬ存在にしかなれない。そんなことを考えていたらこの本に出会った。

最後の資質は「戦略性」。

5日間にわたって5つの資質を紹介してきたが、これは格好の自己紹介、あるいは自己分析になると思う。自己分析とは自分の目で見た自分ではなく、自分以外のフィルタを通して見た自分を知ろうとする行為である。自分で思っているだけの自己分析は自己暗示と区別が付かない。

それにしても偏っている。34の資質の中には「共感性」や「コミュニケーション」、「社交性」といった人間関係にまつわる資質も含まれているのだが、見事にどの資質も持ち合わせていない(もちろん、たった180の質問に答えただけで得られた結果に過ぎないわけで、当然ブレもあるとは思うが)。

その昔、ロールプレイングゲームRPG)というものに浸かっていた頃、「ゆせそま」が一番バランスが取れているので良い、というような説が多数を占めていた。「ゆせそま」とは、某RPGにおける用語で、勇者(主人公)、戦士(肉弾戦の要)、僧侶(回復の呪文)、魔法使い(攻撃の魔術)それぞれの頭1文字を取ったものであり、この4人で闘えば、それぞれの弱みを補い合い、各々の強みを最も発揮できる、とする戦略フォーメーションを指す。

しかし、弱みという各メンバーが持つリスクを分散できる反面、それぞれの強みも分散してしまう。例えば、戦士が渾身の力で剣(つるぎ)を振り下ろそうとしても、ひ弱な魔法使いがひん死の重傷であれば、彼をモンスターからの攻撃から守ることを優先しないといけないかも知れない。

それでは、「ゆせせせ」というのはどうだろう。戦士ばかりがぞろぞろいれば、回復とか守るといったことを気にする以前に迫り来るモンスターたちを次々となぎ倒すことができる。手の込んだ戦略は要らない。戦略がないことが「ゆせせせ」の戦略である。

重要なことは、組み合わせが生み出す特性である。特性とは「ばっかりやる」その中身である。すなわちトンガリや角があるかどうかが問題で、特に目立った強みがなければ埋もれてしまう。「ゆままま」では強力な攻撃呪文(火炎や雷など)で波状攻撃をくり出すことができる反面、相手からの攻撃にはめっぽう弱い。また、呪文による攻撃を受け付けないモンスターには太刀打ちできない。そこで、この4人に「ゆせせせ」が加われば、お互いの強みが活かされる。

ところが、しばらくすると結局同じことの繰り返しになることに気づく。つまり、まず最初に、何かに偏ったアンバランスな状態からバランスと取れた状態に移り変わろうとする力が働き、ある程度バランスしてくると、今度はバランスされた状態からアンバランスな状態を自ら指向するようになる。

以前、「飽きる」ことは偏在性(アンバランス)を回避するためのプログラムである、というようなことを書いたが、逆に均衡状態(バランス)からも自由である方がいい。人は生きている限りは常に変化し続けているわけで、同様に変化する外部環境に適応していくには自分を意識的に変えていく必要がある。変えていくためのきっかけあるいはトリガーとなるのが不安であり危機感である。不安や危機感はバランスからは生まれない。アンバランスであるがゆえに不安になり、危機感が生まれる。

バランスが取れている時は自己完結の陥穽(かんせい)にはまりやすい。自分で何でもできる(と思い込んでいる)から、行動が後手に回る。気づいたときには手遅れになる。

「ゆせそま」のままで大丈夫だろうか。


なぜ、飽きる?

「資質の組み合わせがまったく同じ人っているのかな?」
「34の資質のうちから5つを選び出すパターンは全部で約3300万通りあるそうなので、事実上まったく同じ資質を持ち合わせる人はいないんじゃないか、と書いてある」
「みんなそれぞれが違うからバランスが理想になる。バランスはハナニン(鼻先のニンジン)みたいなものかも」