情報の増殖は止められるか?


我々は素材メーカーだが提案型の営業姿勢を強める。
日本経済新聞 2001年12月9日・朝刊


「提案型営業」という言葉が躍り始めて久しいが、実際にどれほど浸透しているかは定かではない。

それ以前に、営業というのは提案そのものなのではないか、とも思う。「提案型営業」は「朱色の朱肉」とか「負傷を負った」とか「冷たい氷」に類するトートロジーであって、「今後は提案型営業を推進します」と言われると「じゃぁ、今まではいったい何をやってきたんだ?」と訊きたくなる。

発展の本質は分化である。発展途上は未分化・分化途上である。会社を作ったばかりの頃は社長が営業から製造、販売、経理、総務まで何でもやる。そして次第にその職能を人に割り振るようになる。すなわち、「やる」と「看る」が分化する。

それらが再び一人の人間に集約されてあたかもマルチで価値ある「新しいスタイル」のような香りがするが、ぜんぜん新しくない。そして、そういう言葉は少なくない。

そういう言葉が必要になるのは、言葉の不完全さに起因する。1つの言葉が1つの概念を伝えきることができるのであれば、言い換えやパラフレーズは要らなくなる( ← この「言い換え」や「パラフレーズ」も言い換えだ)。世の中にあふれる情報量ももっと減る。でも、伝えきれないから増え続ける。そしてそれにともなって誤解や勘違いも増え、それを正すための活字が日々増殖し続ける。

このプロセスは分化であり、文化でもある。


その一行がどうしても出てこなかったのだ
やはり、コピーとシミュレーションの世界なのです

正社員を雇うか、アルバイトでしのぐか?


店舗では20代前半の若い社員とアルバイトが区別なく働き、長時間残業も積極的にこなす。現場の業務改善についての提案も、全員が率先して声を上げる。(…中略…)

現役の大学生を社長にして会社を設立し、フランチャイズ店を経営させる「学生ブックオフ」という制度もある。資本金はブックオフが提供する。

「スポーツの世界では、大学を出て1年目でも即戦力となる。ビジネスにもそんな人材がいてもいい。経営学を学ぶより、実際に経営する方がよっぽど勉強になる。ビジネス体育会をやりたい」と坂本は言う。

日経ビジネス 2001年12月10日号 p.95 坂本孝氏(ブックオフコーポレーション社長)


会社規模の拡大に伴って発生する、避けて通ることができない関門が人材採用。野球は9人いないとできないが、キャッチャーばかり9人いても意味がない。企業活動も同様で、人数の規定はないが、社員25人の会社に社長が25人いても何が何だかよくわからない。でも、25人の社長がそれぞれ意味のある役割を担って、会社全体として組織的に動けるというのであれば、特に問題はない。

そもそも「社長」という呼称はあくまでも社内ローカルなものであって、法的な縛りはない。例えば「隊長」でも「キャプテン」でも一向に構わない。

契約社員派遣社員などに代表される非正規雇用者に対する正社員(プロパー)の定義付けは、かつては不要だったのではないだろうか。「プロパー」という言葉も、「プロパーでない人」が現れなければ生まれなかっただろう。

数年前に就職活動をしていた折に「SEの35年定年説は本当ですか?」や「当社は派遣はやっていません」といった質疑応答をたくさん聞いた。特に「派遣」という言葉はそれだけでイメージダウンにつながるため、どのIT企業(当時はSI企業と呼ばれていたが、今でもそう呼ぶ人はいるのだろうか?)も異口同音に「やってません」だった。数年後の今日、「派遣」という言葉から連想されるイメージはどんなものだろうか?

「正社員」とか「アルバイト」という言葉は10年後にはなくなっているかも知れない。あるいは、別の概念を表す記号として言葉同士の「M&A」の果てに生き続けるかも知れない。その頃にはアルバイトを雇うか、正社員でしのぐか、などと悩んでいるかも知れない。


現実認識を作り出すだけでなく歪めもする
「ずぶ」の新卒の立場は危うい
ブックオフコーポレーション

ツッコミどころはどこにある?

「世の中」は常にボケている。

ボケはツッコミと対になっているから、ツッコミをしてもらえないボケほど空しいものはない。「世の中」はツッコミを求めている。ツッコミをするにはそれなりのエスプリとウィットがないとできない。あやふやな知識や中途半端な理解からはキレのいいツッコミは生み出されない。小手先のツッコミは見抜かれる。一見小手先でも実は全身全霊なツッコミ、であれば人を動かすことができる。

ツッコミを入れることはリスクテイキングである。誰かがボケたとき、黙っていればリスクはないが、「笑い」も取れない。ツッコミの入れ方と内容でその人の実力がだいたいわかる。ツッコミを入れるべきところで入れられるベンチャースピリットがあるかどうか。ボケではないところにツッコミを入れれば顰蹙を買うが、その状態からどれだけ早く立ち直れるか、その「体力」はいかほどか。ツッコミは人の総合力を露わにする。

「世の中」は自らボケることで人々にツッコミを期待している。人々はより鋭いツッコミをするべく日夜努力を重ねている。「笑い」を取れれば前途は明るい。

「世の中」にツッコミを。


「なにしとんねん!」「何しに会社に来とるんや!」

追い出されるのか、逃げられるのか?


厚生労働省文部科学省の調査によれば、10月1日現在、高校生の就職内定率は37%と、調査開始の87年以来、最低であった。求人数も、前年同期に比べ10%減少した。高卒就職の厳しさは、実際の進路にも現れ、今年3月の高卒者のうち、進学も就職もしない「無学者」は13万人、全卒業者のおよそ一割を占めた。不況の影響が、高卒就職を直撃している。
日本経済新聞 2001年12月1日・朝刊「急増する高卒無業者 『構造的失業』、対策が急務」


受験を控えた高校生の立場は、就職活動中の大学生、あるいは転職を考えているビジネスパーソンのそれに似ているかも知れない。いずれも人生の岐路である。

10年前に同じ立場にあった当時を思い起こすと、大学に行くのが当たり前であり、それ以外の選択肢は考えられなかった。大学に行くことが「正道」であり、それ以外はすべて「邪道」である、とさえ認識されていたのではないだろうか。

もちろん、10年たった今でもそれほど状況は変わっていないとは思うが、(特に日本の)大学に行く以外の道も「あり」になりつつあることは確かだと思う。大学に入って出たからと言って、本人に何らかの目的意識がなければ「大卒」という資格以外に得られるものは何もない。

一般的に言って資格は社会的な力であり、それを認めてくれる相手がいなければ無力である。特に、手段はどうあれ単位さえ取得できれば得られてしまう資格にどれほどの価値があるのだろうか。自分を覆う入れ物に多少のハクはつくかも知れないが、肝心の中身が何も変わらないのではお金と時間がもったいない。当然、そのような資格であれば相手にすぐに見抜かれる。

同じお金と時間を使うなら自分の外ではなく中に蓄積できるようなものを追求した方がいい。それは簡単には見つからないかも知れない。加えて、人と違うことをすることは勇気が要る。しかし、それらを押してでもやろうという意志があれば、道は拓ける。もちろん、追い求めるものが大学の中にあれば、大学に行けばいい。

10年前なら決められたルートに沿っていれば乗り換えなしでスムーズに行けたのに、今や自分で判断しつつ状況に合わせて最適な乗り換えをしていかなければ目的地にたどり着けなくなっている。ルートもなければレールもない。

むしろ、ルートやレールがあるからいけないのかも知れない。ペイオフにちなんで、1つの会社で一定期間以上の雇用は保証しないということになったりしたら、個人は自己のキャリアアップに真剣になるかも知れない。優秀な正社員の存在は経営者にとってみれば実にありがたいものだが、その正社員が一定期間たつとFA制度のようなものを使ってひらひらと他企業に逃げていくとしたら、経営者は自社の魅力アップに真剣になるかも知れない。

大事なことなら思い出す、か?

誰もが、いずれは事を成したい、と思っている。「いやいや、現状のままマイペースで生きていければそれでいいですよ」と思っている人でも、そういうライフスタイルを確立することだって充分に「事」だ。

事を成すことは煎じ詰めれば「決めること」に辿り着く。決めない限りは何も成すことはできない。決めるということは分けること。何をやって、何をやらないか。何を捨てるか。何を諦めるか。

ここで大事なことは「やらない」と決めたその後のこと。後でやろうと思っても「後」は決してやってこない。今やることができない以上は後に回すしかない。ひもを付けておいて後で手繰り寄せられるようにしておく必要がある。

例えば、手帳に書き留めたりパソコンにインプットしておく(以前にも紹介したが、パソコンなら日時を指定しておいて、その日になったら知らせてもらうように設定することもできる)。もっと大事なことがたくさんあるのに、それらをさしおいて後回しにするようなことのためにそんな手間はかけられない、という考え方ももちろんある。そして常套句が飛び出す。

「大事なことなら思い出すだろう」

しかし、それは言い訳に過ぎないと思う。


いつ思い出さないといけないかは教えてくれない

「優秀な人材」とは?


相次ぐ証券会社の誤発注について構造問題が背景にあるとの指摘も出ている。市場関係者は「リストラと人材流動化が急激に進み、システム操作を熟知する社員が減っている」という。情報技術(IT)化を競う一方、それに見合った管理体制の整備が遅れているとの見方もある。
日本経済新聞 2001年12月6日・朝刊


企業という「入れ物」とビジネス(あるいは商売)という「中身」があったとき、「入れ物」に「中身」を注ぐのは人である。「中身」はそれ自身ではどうすることもできない。どんなに「中身」が優れていても、どんなに「入れ物」が立派に作られていても、その「間」を接ぐべき人がいなければうまくいかない。

企業は人を使ってシステムを動かす。動詞がなければ主語は目的語にアクセスできない。人材は名詞ではなく動詞である。人材の流動化は、1人の人間の中でも起こっている。「優秀な人材」は動的なものであり、いつまでも優秀ではあり続けることは保証されておらず、「優秀」と解釈される基準も時と場合と体制によって変化する。

当人が持つポテンシャルはあまり関係がない。その場でどう振る舞うかだけで決まる。「優秀な人材」は「なる」ものではなく、「する」ものである。


それ

「わかりにくい」は悪か?


推理小説を読んでいる時に、犯人はこいつだと他人に教えられるようなものですよ」。米大リーグに造けいが深い池井優・青学大教授は米国人から、日本の野球中継の解説は非常識だと指摘されたことがある。

投手と打者の対決をじっくり楽しみたいのに「次は外角スライダー」「ここは1球待つべきだ」と講釈をたれる。米国なら大事な場面ほどひと言で済ませる。「さあ皆さん、注目しましょう」。“邪魔”が入らないから画面に引き込まれる。

日本経済新聞 2001年12月5日・朝刊


世の中には大きく分けて2つのベクトルがある。「わかりやすく」と「わかりにくく」。もちろん、「わかりにくく」派は、わざわざ「わかりにくく」するのではない。それ以上「わかりやすく」しようがないから結果的に「わかりにくく」なってしまう。

新しいビジネスモデルは「わかりにくい」。古いビジネスモデルは「わかりやすい」。だから、新たに登場する「わかりやすい」ビジネスモデルは実は新しくないかも知れない。ビジネスである以上は多くの賛同を得る必要があるから「わかりにくい」ままではよろしくない。必然的に「わかりやすい」ベクトルを志向せざるを得ない。

しかし「わかりやすい」だけに執着すると、文化はそこで終着してしまう。「わかりにくい」という余地があるからこそ人々は努力と勉強に引き込まれる。