気づいているのにできないのはなぜか?


採用は現場の担当者に任せており、直接面接などをしているわけではないが、他人へのサービス精神があるかを徹底的に見ている。ある意味、あらゆる仕事はだれかへのサービス業。サービス精神がない限り、仕事はうまくいかない。

最近、他人とかかわりを持ちたがらない、サービス精神のない人が増えているように思える。先日ある首都圏の有力大学で起業について講演したが、感じたのはこの人たちが商売をやったらほとんど失敗するだろうな、ということ。珍しい人が来たから聴きに来たという態度で、自分の糧になるものはないかという真剣さが見えなかった。人の話をまじめに聞くのもサービス精神だというのに。

自分はちょっとしたものだと思っている人が多い。過去に採用して失敗したのはこういう中途半端に頭がいい人。自分の論理で完結して自己満足して成長しない。親をはじめ、大学でも頭がいいと言ってあげるからいけない。もっと広い目で見て、自分より上の人間がいると思わないと。


最初にすることはたいてい決まっている。決まっている、ということはわかっている、ということでもある。自分だけでなく他人も。

検索サイトを表示させた時にユーザーが最初にすることは、キーワード欄に検索文字列を入力することである。そのためには、まずキーワード欄にカーソルがないといけない。もしなければ、マウスなりキーボードなりを使って、キーワード欄にカーソルを持っていく必要がある。従って、検索サイトでは、最初からキーワード欄にカーソルがあることが望ましい。そうすればユーザーはすぐに入力し始めることができる。

オンラインバンキングでログイン後にユーザーが最初に知りたいことは、現在の口座残高である。直近の取引明細もわかればなお良い。コンピュータは口座残高も取引明細もちゃんと知っているくせに、これを照会しようとすれば「正確な」手続きを要求する。取引明細であれば、いつからいつまでか、開始年月日と終了年月日の入力が求められる。人にとっては面倒この上ない。従って、オンラインバンキングでは、ログイン直後に現在の口座残高と直近の取引明細(10件ぐらい)が最初から表示されることが望ましい。そうすれば、預金者は照会操作の手間を省くことができる。

最初に目に入る部分が続くすべての印象を左右する。最初を気持ち良くスムーズに通過できれば、全体として良い印象を持ちやすい。逆に最初でつまづくと、以降の挽回は難しい。

仕組みは必要を満たすために作られたはずなのに、必要を満たし切らない仕組みが増えているような気がする。仕組みを作ること自体が目的になっていることもあると思うが、それ以上に作る側に「(気持ち良く)使ってもらう」という意識が欠けていることが大きい。欠けてはいても、ほとんどの人がうすうす気づいている。それでも。

何かに縛られている、あるいは追い詰められている、のだろうか。


一から作り直すのはしんどい

なぜ、読まない?


基本的に情報というのはプッシュ型(メール)であるべきです。 プル型(Web)の情報発信はぐうたら人間に向いていません。新しい情報がはいっているかどうか、わざわざ見に行くのではなく、メールアドレスに自動的に転送されるべきです。そして保管はWeb上で行い、 どこでも検索できるようにするべきなのです。
「ものぐさメール術」(メールポインター


有用な情報源を知っていても、それを活用しなければ知らないのと同じである。役に立つ(はずの)メルマガを購読していても読まなければ購読していないのと同じである。さらに言えば、未読のメールが溜まりすぎて、メールを読むこと自体がストレスになり、仕方なく読むのでは必要な情報を見落としかねない。

5年前と比べると1日に届くメールの通数は無茶苦茶増えた。もはや1日たりとも放っておけない。ただし、増えたと言ってもDMやスパムが占める割合が大きい。そして、それはもとはと言えば自分で招いたことではある。無料サービスに登録したり、オンラインショッピングをすれば、そこからの「お知らせ」メールが舞い込むようになる。もともと興味のない一方的なDMは初めからスパムだが、こういった「お知らせ」メールも興味を失って読まなくなればスパムになる。

届くメールが増えて困るのは、検討が必要な重要なメールが埋もれてしまうこと。さらに言えば、すぐに返事が必要な緊急なメールが殺到することでも重要なメールが埋もれる。これだけでもすでに十分に混乱状態だが、さらにスパムが加わればカオスになる。カオスな箱を開けてみたいとはなかなか思わない。かくしてメールを読まなくなる。

以前「メールは手動振り分けがいい」というようなことを書いたが、もはや1つの箱では捌ききれなくなってきた。現在は目的に応じた複数のメールアドレスを使い分けるようにしている。取引先とのやり取りに使うアドレス、仕事以外の仲間とのやり取りに使うアドレス、メルマガや無料サービス、アンケート回答のために使うアドレスの大きく分けて3種類。アドレスによっては、携帯やWebメールに転送されるように設定している。例えば、サイズの小さいメルマガは携帯にも、HTML形式のメルマガはWebメールにも、読み捨てメルマガはWebメールのみに、それぞれ届くように「区別」している。

メールも含めて情報には読み捨てと読み拾い(拾い読みではなくて)の2種類があると思う。1つの窓口でこの両方を処理しようとするのは無理がある。いっそすべてのメールをWebメールで受信してしまい、「人間」から届くメールだけをパソコンで受信するようにしてしまえばスッキリする。時間が無いときでも、とりあえずパソコンで受信したメールだけに目を通していれば、少なくとも信用を失うことはない。時間があればWebメールに足を伸ばして情報収集をする、という使い分けができる。

あるいは、Webメールだけをチェックするようにし、返事が必要なメールが届いたら、初めてメーラーを起動して返事を書く、というやり方でもいい。これはメーラーでメールを開くと感染するというウィルス対策にもなる。Webメールでウィルスらしきメールの受信を確認したら、メーラーで受信する前にメールサーバ上でそのメールを削除すればいい。

重要なことはWebメールのメールは手元には無い、ということである。パソコンで受信すると手元に溜まっていくから、それがプレッシャーになる。読まない本や雑誌が机に散乱していると本来読むべき本や資料が埋もれてしまうことに似ている。

いま、未読メールは何通あるだろうか。


自動振り分けか、手動振り分けか?
メールポインター(現在新規登録受付は停止中)

なぜ、読む?


経済の専門家だけではなく、経済や財政の問題に関心のある一般の方々に幅広く読んでいただけるよう、読み手にやさしい内容を心がけて書いています。分析の結論もはっきりわかるものにしています。

今の日本経済で何が問題となっているのか、政府としてどういうスタンスで経済政策を考えているのか、を知るには必読の書だと思います。本屋さんに寄った機会に、新しい『経済財政白書』を是非手に取って見てください。

竹中経済財政政策担当大臣「年次経済財政報告の公表にあたって」
小泉内閣メールマガジン 第25号より)


毎日の大量の情報が押し寄せてくる。情報はそれが「必要」だからこそ取るのだが、情報を巡る「必要」には3つの種類があると思う。1つ目は入れ物のための情報、2つ目は中身のための情報、3つ目は、入れ物と中身の間のための情報。

現在新聞以外には「日経ビジネス」と「フォーサイト」を購読しているが、理由は3つある。1つ目は新聞だけでは得られない視点を知るため、2つ目は知らないことを知るため、3つ目は知っているもの同士の間に張られた細い糸(意図)を知るため。

関係がないと思ったら、そこで関係が切れる。そもそも、あらゆる分類は恣意的なものであって、経済誌だから経済の専門家だけを相手にするものではないし、文学部の学生でも物理が得意だという人もいるだろう。

優れた考え方を身につけてもコンテンツがなければ先に進めない。知識そのものは部品に過ぎない。考え方と知識の間を接ぐものがなければアウトプットにつながらない。グラスにビールを注ぐときに生じる「コポコポ」という音はグラスにもビールにも属さない。すなわち入れ物でも中身でもない。でも、「コポコポ」がなかったら、それらしくない。

いま取っている情報の「必要」は何だろうか。


入れ物が先か、中身が先か
フォーサイト

なぜ、続かない?

やっていて楽しいことと、やっていてしんどいことがある。

読みさしならない面白さがあれば、読んでも読んでもちっとも理解できないのに義務的に読まないといけない苦痛もある。面白さも苦痛も、それぞれ2種類ずつある。与えられる面白さと自分で見つける面白さ、強いられる苦痛と織り込み済みの苦痛。

与えられる面白さはお金を出して買うことができるが、自分で見つける面白さは基本的に無料である。強いられる苦痛の代償はお金で支払われる場合が多いが、織り込み済みの苦痛は何かの必要条件であって、必ずしも金銭に結びつくとは限らない。結局、金銭が絡むからややこしくなる、ということはある。

何かを始めるだけなら勢いでもできる。その始めた何かを維持するには勢いだけでは足りない。頂上に上り詰めたら、目標を失うので後は落ちていくしかない。山は目標を与えてくれはするが、見つけてはくれない。

続くかどうかは、結局自分次第であって、最初こそロケットのブースターのごとく推進力を与えられたり強いられたりする必要があるかも知れないが、軌道に乗った後に目標に向かって突き進む原動力は自分の中からしか生まれない。

原動力はセルフサービスになっているだろうか。


真っ白なものをみつけては、垢だらけにしていくんだ

なぜ、気づかない?

「あれ?」とか「おや?」と感じることがある。

ガスの元栓や玄関のカギかけなど日常的にやっていることは、無意識にできてしまうことが多い。無意識なだけに、電車に乗りこんでから「あれ、締めてきたっけ?」と不安になることがある。「そういう場合でも99%は無意識に締めているものである」とする記事をどこかで読んだ。

無意識の下でも「センサー」は働いているらしい、ということに最近気づいた。

家を出る時に、いつも欠かさずやっている一連の手続きがある。それは財布やカギを身に付けたり、パソコンの電源を落としたり、電気を消したり、といったものである。それらは「家を出る」という指令を受けると自動的に処理を始め、「家を出る」に向かって一直線に動き出す。その過程には迷いや選択の余地はほとんどない。だからこそ無意識なのか、あるいは無意識だからそうなのかはわからないが、とにかく淡々と処理が進む。

その日はなぜか家を出てからずっと「そぞろ」な気持ちがぬぐい切れず、かと言って具体的に何かを忘れたような実感もなく、心のどこかに口を開いたらしい小さな穴の在処をずっとまさぐり続けていた。見つからない。

一般に、そこに「在るもの」に気づくことはたやすいが、「無いもの」に気づくことは難しい。「在るもの」は「無いもの」の裏返しであり、本質は常に「無いもの」の中に身を潜める。山折りをすれば、その裏は谷折りになり、中高年の雇用テコ入れを図れば、若年層の就業機会が犠牲になり、自社が受注をした裏では、他社が失注している。

そこに「無いもの」でも、あたかも「在るもの」であるかのように感じられることがある。それはただならぬ大発見の始まりを予感させ、あるいは袋小路の入り口に過ぎないかも知れない。いずれにしても、それを感じるためには sensational に躍らされることなく、小さな変化に sensitive になる必要がある。

「センサー」に引っ掛かるということは、ある程度のパターンが自分の中に構築されているということである。受信したいつもの信号が規定のパターンに合致しないために、それが「あれ?」とか「おや?」といった違和感や「そぞろ」な気持ちとして浮上する。その気持ちをいかにストレートに言動に変換できるか、が分かれ目になる。

「センサー」は働いているだろうか。


書かなかった言葉の方が重要である
書いていないことであっても気づけばやる
スペシャリストの存在意義

なぜ、飽きる?

どんなにカレーが好きだからと言っても、毎日三食カレーばかりを食べ続けていればやがて飽きがきて、別の食べ物を欲するようになる。牛丼でも納豆ごはんでもベーグルでも何でもそうで、同じものばかりを食べ続けていると体は特定の刺激にさらされることになり、偏った状態に陥る。

「飽きる」という感覚は、そういった偏在性を回避するための人間の体にあらかじめ組み込まれたプログラムである、というような話を聞いたことがある。個人間の差こそあれ、人は新しいものには注意を引かれる。そして既存のものと新しいものとを比較する。新しいものの中に既存のものにはない何かを見いだせれば、それを欲する。もしも、人が「飽きる」ことを忘れたら、その時点で発展は止まる。

人は「飽きる」ことで自分の中の新しい局面を見いだし、「飽きられる」ことによって自分の中にある旧い局面を認識する。

ところで、カレーを食べることに「飽きる」ことはあっても、「忘れる」ことはあまりない。似ているが違う。むしろ「飽きる」は記憶に深く濃く刻みつけられ「まくって」いる状態であるという意味で、浅く薄くなって磨耗している状態を指す「忘れる」とは正反対の概念である。

久しぶりにカレーを食べてみると、「忘れていた」おいしさがよみがえり、「飽きた」はずの味が豊かに感じられる。飽きられても忘れられなければ客は戻ってきてくれる。もちろん、飽きられる以前に忘れられることもある。そう考えると、よく言われるような「客に飽きられないように工夫する」という前にやるべきことがある。すなわち、飽きるほど反復したくなるような魅力や価値を備える必要がある。

客は商品やサービスに魅力や価値が「ある」から来るのではなく、商品やサービスが魅力や価値を「する」から来る。客は目的語であって、動詞ではない。客が自ら商品やサービスに向かうのではなく、商品やサービスの方が客を動かす必要がある。

客に提供している商品やサービスが「状態」(常態)化してはいないだろうか。

その心地よさは本物か?

引きこもりだった兄は「社会」復帰し、妹は「日本」を脱し、母親は「自分」の生き方を模索し、リストラされた父親は「故郷」に帰って第二の人生を歩み始めた。

自分の強さを誇示することはたやすいが、自分の弱さを露呈するには勇気が要る。強さは孤独を生き抜き、弱さは馴れ合いの中で朽ちる。「社会」には求める答えはなく、「日本」を出ない限り自国を知る術はなく、「自分」がやりたいことの原点は、自分の「故郷」にある。

人は、自分ができないことを他人もできない、という事実を知って安心する。できなくてもいい、という心地よさは「ありたい自分」から遠ざかる後ろめたさを掻き消して余りある。

フィクションであっても現実からかけ離れ過ぎれば、リアリティが失われ、色褪せていく。逆に虚構性が失われると、オーディエンスの入り込む余地がなくなり、味も香りも薄くなる。両者のバランスはあり得ず、常に揺れる。揺さぶられる。その過程に「ドキリ」がある。

リアリティーはディテールであり、バーチャルはアバウトである。何もしなくてもヘッドセットを付ければ引き込まれるバーチャルと違い、細部にわたって意図的・徹底的にこだわるリアリティーは現実を直視する強い意志を必要とする。

現実を直視することから逃れる術が今の世の中にはあふれている。


現実を直視しようとしている
リアルなアイドルはもはやアイドルではない
最後の家族(テレビ朝日)