なぜ、高みを目指すのか?


M A X I M I Z E R / 最 上 志 向

優秀であること、平均ではなく。これがあなたの基準です。平均以下の何かを平均より少し上に引き上げるには大変な努力を要しますが、あなたはそこにまったく意味を見出しません。同様に努力を要しますが、平均以上の何かを最高のものに高めることのほうが、はるかに胸躍ります。自分自身のものか他の人のものかにかかわらず、強みはあなたを魅了します。

真珠を追い求めるダイバーのように、あなたは強みを示す明らかな兆候を探し求めます。生まれついての優秀さ、飲み込みの速さ、一気に上達した技能──これらがわずかでも見えることは、強みがあることかもしれないことを示す手がかりになります。そしていったん強みを発見すると、あなたはそれを伸ばし、磨きをかけ、優秀さへ高めずにはいられません。あなたは真珠を光り輝くまで磨くのです。

このように、この自然に長所を見分ける力は、ほかの人から、人を区別していると見られるかもしれません。あなたはあなたの強みを高く評価してくれる人たちと一緒に過ごすことを選びます。同じように、自分の強みを発見しそれを伸ばしてきたと思われる人たちに惹かれます。あなたは、あなたを型にはめて、弱点を克服させようとする人々を避ける傾向があります。あなたは自分の弱みを嘆きながら人生を送りたくありません。それよりも、持って生まれた天賦の才能を最大限に利用したいと考えます。そのほうが愉しく、実りも多いのです。そして意外なことに、そのほうがもっと大変なのです。

マーカス・バッキンガム、ドナルド・O.クリフトン著/田口俊樹訳
さぁ、才能に目覚めよう』(日本経済新聞社) p.124


非常に感じの悪い、嫌なやつ、と揶揄されても文句が言えないかも知れない言葉が並ぶ。

4つ目の資質は「最上志向」。

会社によるとは思うが、会社としてはなるべくいろいろなことができる人であって欲しいと思うところが少なからずあるように感じられる。だからいろいろな職場や職種や職能を経験させようとする。もちろん、自分だけの狭い視野では到底気づけなかったような新たな活躍の場を知るチャンスになるかも知れないし、自分だったら絶対にしないような決断を会社の命令だからということで仕方なく身を任せたところ、ふたを開けてみたらまさに自分にぴったりの天職のような仕事に巡り合うということもあり得なくはない。

ただ、そんな風に感じられるためには、日頃からあれこれ思いを巡らせて考え続けているからこそ、確信を持ってそう感じられるのであって、無難に平和に穏便に過ごしていたら気づかずに通り過ぎてしまうような微妙なものだとも思う。

新しい仕事をすることはリスクである。それは仕事を依頼する側にとっても同じで、少しでも経験の豊かな人に頼みたいと考える。でもよくよく考えてみると仕事ができる人というのは経験というストックで仕事をしているわけではない。経験はあくまでもお膳立てであって、俎上は常に新しい。経験は抜け殻に過ぎない。

まっさらなまな板を前に、日々挑戦し続けるところに進歩と発展がある。経験があるから仕事をするのではなく、挑戦する勇気と元気と乗り気があるから仕事をするのだと思う。

この国では必ずしも、好意的に受け入れられる態度ではないようだけれど。


風邪を引いたら桶屋が儲かる

「人と違うことをするのは勇気が要るよね。周りの目に配慮しないといけなかったり」
「だから、表面上は人と同じことをしているというポーズを取ろうする。でも、人と同じことをするのも本来は勇気が要ることだと思うんだけど…」

なぜ「学習」するのか?


L E A R N E R / 学 習 欲

あなたは学ぶことが大好きです。あなたが最も関心を持つテーマは、あなたのほかの資質や経験によって決まりますが、それがなんであれ、あなたはいつも学ぶ「プロセス」に心を惹かれます。内容や結果よりもプロセスこそが、あなたにとっては刺激的なのです。あなたは何も知らない状態から能力を備えた状態に、着実で計画的なプロセスを経て移行することで活気づけられます。最初にいくつかの事実に接することでぞくぞくし、早い段階で学んだことを復誦し練習する努力をし、スキルを習得するにつれ自信が強まる──これがあなたの心を惹きつける学習プロセスです。

あなたの意欲の高まりは、あなたに社会人学習──外国語、ヨガ、大学院など──への参加を促すようになります。それは、短期プロジェクトへの取り組みを依頼されて、短期間でたくさんの新しいことを学ぶことが求められ、そしてすぐにまた次の新しいプロジェクトに取り組んでいく必要のあるような、活気にあふれた職場環境の中で力を発揮します。

この「学習欲」という資質は、必ずしもあなたがその分野の専門家になろうとしているとか、専門的あるいは学術的な資格に伴う尊敬の念を求めていることを意味するわけではありません。学習の成果は、「学習のプロセス」ほど重要ではないのです。

マーカス・バッキンガム、ドナルド・O.クリフトン著/田口俊樹訳
さぁ、才能に目覚めよう』(日本経済新聞社) p.103


学習することは気づくことだと思う。しかし、行動と気づきとの間には規則性はない。何をすれば何に気づくのかの定式は規定できない。むしろ偶然の手順が習慣になり、知恵として純化するというプロセスを辿る。

3つ目の資質は「学習欲」だった。当たっているところもあるがピンと来ない部分もある。

「走り書き」は、全体が見えないジグソーパズルに似ている。特にテーマがあるわけではなく、頭の中から出てくる1つ1つのピースを毎日目に見える形にひたすら変換していく。頭に浮かんだイメージを言葉の大きさに切り出していく。

全貌は常に一定ではなく、1つ1つのピースによって大きく左右されることがある。上下を逆さまにしたり、一見関連性のない部分同士をつなぎ合わせたりしながら、新しいパターンを見いだしていく。

人は気づこうと思って「気づく」のではなく、ふと気づくと「気づいている」ものである。学習のプロセスは自分がまだ気づいていないことに気づくことをひたすら繰り返すことだと思う。気づいたら、気づいていた自分に気づくことが新しい気づきを生む。

今日は何に気づくだろうか。


ゼネラルなスペシャリストになる
ないことに気づく
今に気づく

「スパイならたとえ気づいていても気づいていない振りもできないといけない」
「気づいていない振りをしている自分に気づかないくらいでないと相手に悟られてしまう」
「それって、気づいていないのに気づいた振りをしているのとほとんど変わらないような気がする…」

「慎重さ」の始まりは?


D E L I B E R A T I V E / 慎 重 さ

あなたは用心深く、決して油断しません。あなたは自分のことをあまり話しません。あなたは世の中が予測できない場所であることを知っています。すべてが秩序正しいように見えますが、表面下には数多くの危険が待ちかまえていることを感じ取っています。あなたはこれらの危険を否定するよりは、一つひとつ表面に引き出します。そうして、危険は一つずつ特定され、評価され、最終的に減っていきます。言うなれば、あなたは毎日の生活を注意深く送る、かなりまじめな人です。

たとえば、何かがうまくいかない場合に備えて、あらかじめ計画を立てることを好みます。あなたは友人を慎重に選び、会話が個人的な話題になると、自分のことについては話をせず、自分自身で考えることを好みます。誤解されないように、過度に誉めたり認めたりしないように気をつけます。人になかなか打ち解けないという理由で、あなたを嫌う人がいても気にしません。あなたにとって、人生は人気コンテストではないのです。

人生は地雷原を歩くようなものです。そうすることを望むならば、ほかの人は用心せずにこの地雷原を駆け抜けるかもしれません。しかし、あなたはちがう方法を取ります。あなたは危険を明確にし、その危険が及ぼす影響を推し量り、それから慎重に一歩ずつ踏み出します。あなたは細心の注意を払って進みます。

マーカス・バッキンガム、ドナルド・O.クリフトン著/田口俊樹訳
さぁ、才能に目覚めよう』(日本経済新聞社) p.138


かつてスパイに憧れていたことがあった。小学校低学年の頃だったと思う。無数の小道具を使いこなしながら、困難な任務を静かに遂行する様は見ていて地味だがカッコいい。探偵にも興味があった。トリック犯罪や密室殺人の謎解き本を夢中になって読んでいた。当時はスパイと探偵の違いには気づいていなかった。いずれにしても、対象に集中することで、自らの存在を透明化する、という部分がそのコアにあった。

2つめの資質は「慎重さ」。

忙しいのはいいことだと思っている。人からせかされる忙しさであればなおさらいい。忙しいと自分が本当にやりたいことが見えてくる。時間がないから自分が本当にやりたいことだけを慎重に選ぶようになる。選択の純度が高まる。時間があれば、あっただけ「あれもこれも」と手を出して、わけがわからなくなり、カオスの淵にずぶずぶ沈む。そういう意味で、一度は極限状態の忙しさを経験しておくのも悪くない。

会社から帰る頃には翌日になり、休日も会社にいない日の方が珍しい、というような生活を送っていると、本当にやりたいことだけしかやらない。無意識にやりたいことに向かっていく。やりたいことがわからなくても、そういう生活の中で日々瞬間に疑問を持って、その疑問に取り組む時間を持つようにすれば見えてくることもある。

人は持てる時間が少なければ工夫をし始める。諦めるにしても、上手な諦め方を身につけるようになる。諦めるにも経験と技術が要る。経験と技術を深めることで、カンが磨かれ、わずかな機微をも察知でき、迫る危険を回避する。

誰かに愚痴をこぼしたり当たったり打ちひしがれたりするのは簡単だが、そういう衝動に駆られる自分を冷静に観察していると、自分の側面がよく見えてくる。見えてきさえすれば、それを何とかしようとするべく、コントロールすべく、工夫を開始すれば良い。

スパイが慎重になるのは自分のことをよくわかっているからかも知れない。


わかっちゃいるのに、何で、やってしまうのか?

「結局スパイにはならなかったわけだ」
「それは人には言えません」

なぜ「着想」に魅力を感じるのか?


I D E A T I O N / 着 想

あなたは着想に魅力を感じます。では、着想とは何でしょうか? 着想とは、ほとんどの出来事を最もうまく説明できる考え方です。あなたは複雑に見える表面の下に、なぜ物事がそうなっているかを説明する、的確で簡潔な考え方を発見するとうれしくなります。

着想とは結びつきです。あなたのような考え方を持つ人は、いつも結びつきを探しています。見た眼には共通点のない現象が、なんとなくつながりがありそうだと、あなたは好奇心をかき立てられるのです。着想とは、みながなかなか解決できずにいる日常的な問題に対して、新しい見方をすることです。

あなたはだれでも知っている世の中の事柄を取り上げ、それをひっくり返すことに非常に喜びを感じます。それによって人々は、その事柄を、変わっているけれど意外な角度から眺めることができます。あなたはこのような着想すべてが大好きです。なぜなら、それらは深い意味があるからです。なぜなら、それらは目新しいからです。それらは明瞭であり、逆説的であり、奇抜だからです。これらすべての理由で、あなたは新しい着想が生まれるたびにエネルギーが電流のように走ります。

ほかの人たちはあなたのことを、創造的とか独創的とか、あるいは概念的とか、知的とさえ名づけるかもしれません。おそらく、どれもあてはまるかもしれません。どれもあてはまらないかもしれません。確実なのは、着想はあなたにとってスリルがあるということです。そしてほとんど毎日そうであれば、あなたは幸せなのです。


マーカス・バッキンガム、ドナルド・O.クリフトン著/田口俊樹訳
さぁ、才能に目覚めよう』(日本経済新聞社) p.156



200万人の人にインタビューをし、そこから得られた結果をもとに「強みとなりうる資質」34パターンを抽出。人はこの34の資質のうち5つを持ち合わせているという。自分の5つの資質を知るには、StrengthsFinderという180問からなるテストを受ける必要がある。

実際にやってみたところ、自分の5つの資質が明らかになった。その1つめが「着想」。

自分のことを知ることは何をするにしても必要なことで、それがわからなければ次に進めない。でも現実には、知らなくても進めてしまうことが少なくない。自分のことを知っているつもりで、実はよくわかっていなかった、ということに気づいていないことが問題で、このような人をそれとわからずに雇用したばかりに、お互いに不幸なことになっている個人あるいは会社も少なくないと思う。

成功した人の話を聞いて、真に受けて、真似をしても、成功できる、という保証はない。成功した人は成功すべき手順に従ったから成功したわけではなく、自分にぴったりの道を歩いたから成功したのだと思う。自分にぴったりの道を見つけることが成功への近道、あるいは自分にぴったりの道を歩くことそのものが成功なのかも知れない。

そう考えると、成功した人の話を聞くのは時間の無駄のような気がしてくる。


StrengthsFinder
人の成功物語なんか聞いても面白くない
「それは新しいんですか?」
「それは新しいですね」


「なるほど、それでいつも“結びつき”を探しているわけか」
「走り書きの“走り”というのは、エネルギーが電流のように走り出す、というところから来ていたりして」
「それも結びつきの1つかも」

自分のスタイルを確立するには?

特定の人の文章に傾倒することは少ない。ジャンルを問わずいろいろな人の文章を読むことが多い。文章を読むことは書いた人の考え方や人生観に接するための作業だと思っている。

人の生きる道はどうがんばっても一本しかない。二足の草鞋を履いている人でも、一度に一足の草鞋しか履けない。その一本の生きる道や一足の草鞋を決めるに当たっては、無数にある選択肢から自分に合ったところをチョイスする必要がある。「何が自分に合っているのか?」 すべてのパターンを吟味できるのが理想だが、もちろんそんな時間はない。吟味できたとしてもそれだけで人生は終わってしまう。ほかの人がどう生きているかを知り、知ったことをベースに想像力を働かせて自分に当てはめるという作業をしながら判断していくしかない。

そこで大切になってくる能力の1つに抽象化能力がある。

人はプリウスを見ても、キューブを見ても、オデッセイを見ても、ちゃんと「車」と認識できる。あるいは友達が髪型を変えたり、眼鏡を掛けたりしても、他人と見間違えることはない(たまに気づかなかったりもするが)。人は個々の事象の上位概念を何らかの形で捉えようと努力する。車であれば、タイヤが4つあって、運転席があって、ハンドルがあって、フロントガラスがあって、といった特徴と、前に進んだりバックしたりする、という振る舞いとで目の前にあるものが「車」であると判断しているし、友達であれば、背の高さや顔の特徴、しゃべり方や歩き方や声色などでもやはり「あ、あの人だ」と同定できている。これらのことはほぼ瞬時に無意識に行われている。

人は個々の事象をすべて個別に認識しているのではなく、似たような特徴を持つもの同士をグループ化してとらえている。この時、どのようにグループ分けをするかの基準は人それぞれに異なる。このグループ分けの作業が抽象化である。抽象化するということは対象を自分の中に取り込める形に変換するということだと思う。「要するにそれは何なのか?」「今自分が知っていることとどう関わるのか?」「他にはどのように応用が利くのか?」といったことを必死に自分で考えまくる。適切でない抽象化は、認識にズレを生じさせ、判断を誤らせ、行動において失敗をもたらす。

考えまくるプロセスに自分らしさやオリジナリティが潜む。自分のスタイルを確立する、ということは抽象化のための「動詞」をたくさん持つことであり、そのラインナップと組み合わせが「自分のスタイル」なのだと思う。

さらに言えば、抽象化能力は「生きる力」そのもののような気がする。


生きる力を活かす力
なぜ、飽きる?


「まずは自分を知る必要があるね」
「特に自分の強みが何かを知っておいた方がいい。ある本によると『繰り返し現れる思考、感情および行動パターンであり、何かを生み出す力を持つ資質』に注目することを説いている」
「その本とは?」
「来週紹介します」

それは本当に「当たり前」なのか?


「SIONet(シオネット)」とは、様々な“意味”をあて先にして、個人に向けて情報を送信できる新しいネットワークだ。「東京在住者」や「クラシック音楽が好きな人」「目白通りを通行中の人」などに直接情報を発信できる。

現在、インターネットで使われている送信先はコンピューターごとに割り振られたIPアドレスのみ。同アドレスを分かりやすいメールアドレスやホームのアドレスに置き換えて、コンピューターに向けて情報を送信している。故に、自分が情報を交換できる範囲は「アドレスを知っている範囲」に限られていた。

SIONetでは、ユーザーがあらかじめネットワークに登録した属性や趣味などの“意味情報”も送信先にする事ができる。中央サーバーが存在しない純粋なPtoPのネットワークでパソコンや携帯電話など全端末を連鎖反応的に探索しながら、不特定多数の中に分散する特定の個人たちを発見する。つまり、「誰かに対して」ではなく「どんな人に対して送信するか」が可能となるわけだ。

日経産業新聞 2002年1月10日



当たり前のことに疑いの眼差しを向けることが時には必要だと思う。

すでに諦めてしまっていることに対しては誰かが取り組んでいる可能性があるが、諦める以前に人々が当然のこととして素直に受け入れているものにはまだチャンスがある。そういったものに対して「これは本当に便利なのだろうか」「こうしたらもっと快適なんじゃないか」といった探求のメスを入れていくことは、とりあえず差別化の第一歩となる。

例えば、メールはメールアドレスを知っている人にしか送れない、という当たり前を疑うことが出発点となる。

身の回りで起こっている当たり前のことに時折懐疑心を持つと、何か新しい発想が浮かぶかも知れない。


その「すごい」ってのは本当に「すごい」のか?
追い出されるのか、逃げられるのか?


「なんか今日の終わり方って百式っぽい」
「でも、百式は“おすすめ”です」
「“おすすめ”かも知れない」

「つまらない」のはなぜか?


人生をおもしろいと思うということは、常に私を取り巻く私の環境が変化して創る枠組みの中から、逃げ切ることなのだ。環境が私を作るが、私はその環境から常に逃げて、枠の外にいる必要があるのだ。それがおもしろいということなのだ。世界はイリュージョンだ、ひとつの枠組みはすぐに消えて、気がつくと新しい枠組みの中に閉じこめられている。それを感知するためのセンサーこそ「つまらない」という感覚なのだ。
田口ランディ氏「つまらないということ」


平和であることはそれ以上を望むべくもないことだが、見方を変えれば、変化がなく、感動の薄い、つまらない毎日である可能性もある。

人が生きていく上で必要となる活動は数多くあるが、ある程度はパターン化された習慣的に行えるものになっている。これは記憶のメカニズムとも深く関係している。毎日の活動がすべてイレギュラーになったら、大変新鮮で刺激的かも知れない(が、多分それだと興奮しすぎてのたれ死ぬ)。

ところが、パターン化がイレギュラーを駆逐してしまうことがある。毎日が同じことの繰り返しになり、例外のない平坦な日々になる。そうなる前にパターンを壊す必要がある。今まで苦労して築き上げてきたパターンだけに忍びないかも知れないが、壊さなければ明日はない。

書いていておもしろいものだからといって、読んでもおもしろいとは限らないが、書いていてつまらないものは、読んでも絶対つまらない。

「走り書き」は2001年7月末で一度休筆した(それまでは土日祝日も含めて本当に毎日更新していた)。何だか走れなくなってしまった。その原因を1ヶ月間ずっと考えたが、結局はっきりとした原因はつかめぬまま、取りあえず平日のみ更新に切り替えて9月から再開した。

切り替えてから気づいた。それは「走り書き」を休める日があることでその間に考えを進めることができるということであった。言うまでもなく「書く」為にはそれに先立つ「考える」を必要とする。「走り書き」は文字通りのあまり考えずにつらつらと書く、というニュアンスも込めていたのだが、走っているうちに考えずに書くことができなくなってしまっていた。書けば書くほど「前例」が蓄積され、その引力に抗(あらが)うことが困難になっていく。

情報システムを構築すれば売上や利益がアップするかも知れないが、同時にそれまで見えなかった問題が見えてくる。改善する。しばらく情報システムを使い続けているうちにマンネリが発生し、新たな問題に直面する。情報システムをスクラップ&ビルドする。売上や利益がアップする…。終わらない。でも、だからこそ生き続けることができる。

パターン化することのメリットは考えなくてもできるようになることだが、それは同時に、考えることを無力化するデメリットも併せ持つ。パターンを構築することの意味は、それを破壊するための布石なのかも知れない。パターン化することによって、それまで気づかなかった冗長性や繰り返しを露わにすることができる。パターンという形なければ破壊のしようがない。

破壊を前提にしないパターンはつまらない。



毎日書き続けることに意味はあるのか?
なぜ、気づかない?


「昨日とおとといの走り書きは今ひとつだよね」
「ていうか、つまらない...」
「ネタが切れかかっているのかも知れない」
「今日はどうかな?」