今やっているのは「やりたいこと」か、「やらなければならないこと」か?


「記憶」があてにならないなら、「記録」に頼るほかはない。記録のいいところは客観的である点だ。書いてあれば、つまり紙や画面に文字や図として情報が固定されていれば、自分だけでなく他人もそれを目にすることができる。動かぬ証拠だ。それを見て他人ばかりでなく、自分も納得できるのである。「カレーを食べたのは昨日だったっけ? 一昨日だったけ?」というもやもや感は、日記に一行「○月×日 カレーを食べた」と書いてあれば思いっきり納得できてしまう。


「やりたいこと」以上に「やらなければならないこと」はたくさんある。

ところで、「やりたいこと」をやっている、という人は、その実、「やりたいこと」はやれていない。「やりたいこと」をやろうとすると、それは結局「やらなければならないこと」をやることになる、ということに気づく。結果的には「やりたいこと」であっても瞬間瞬間は「やらなければならないこと」の目白押しと闘うことになる。

「やりたいこと」というのは常に複数あることが多い。1つだと思っていてもやろうとすると一時にはやりきれないなどの理由で分割されることになる。これが繰り返されて、たちまち数が増える。これ以上に分けられない、というくらいの小さなことであれば「やりたいこと」という意識を持つ前に完遂してしまう。

例えば、ライターになりたいとか会社を作りたい、という「やりたいこと」があったとすると、いずれもあまりにも大きすぎることなので、実行段階では否が応でも細かく砕かれていく。自己分析をする、文章の練習をする、コネを掘り返す、出版社あるいは編集プロダクションに売り込みに行く、売り込むための原稿を書く、原稿を書くための題材を探す、取材をする、取材ノウハウに関する情報を集める、インターネットで調べる。会社設立であれば、定款を作る、印鑑を作る、最寄りの公証人役場の場所を調べる、定款の認証を受ける、出資金の払い込みをする、設立登記に必要な書類を揃える、補正の確認をする、謄本を取る。

バラバラに分けた「やらなければならないこと」を1つ1つ拾い集めていった結果、「やりたいこと」という結晶が現れる。


ギャップに目を向ける
計画のないところでは、なすがまま・あるがままに時間が溶けていく