言葉の芝目

ゴルフのグリーンに芝目があるように、日々使っている言葉にも芝目がある。一見真っ平らに見えてもそこには凹凸があり、起伏があり、襞(ひだ)がある。

「気が向いたら返事を下さい」
「無理なら遠慮せず言って下さい」
「どうもありがとう」

同じことを言われても、相手と自分の関係やその時の状況などによって解釈は変わる。言葉通りのこともあるし、皮肉っていたり、正反対のことを言っている場合もある。

メッセージはコンテクストなしには響かない。いかに早く相手とコンテクストを共有するかもコミュニケーション能力の一部。それはグリーン上で試される。

名前を付けて保存

現実は捕らえどころがない。それでも捕らえないことには話にならないのでとりあえず恣意的にでも何とか名前をつけて固定化しようとする。例えば、名前をつけることで流れゆく現実の一部を手元に置いておくことができる。

たいていのアプリケーションにある「名前を付けて保存」というコマンドはそれを如実に表している。だが、デスクトップ上にあるごみ箱は手で触れることができる現実のごみ箱の完全なメタファーではない。デスクトップ上にあるごみ箱は現実のごみ箱の内包をすべて兼ね備えているわけではない。

ごみ箱はごみを入れておく入れ物。一杯になればごみ袋に移して清掃業者に引き渡す。ごみ箱は空になる。一杯になる前なら一度捨てたものでも漁って取り戻すことができる。

こういった現実のごみ箱の内包は、デスクトップ上にあるごみ箱の振る舞いの理解に役立つ。ただし、同じ名前だが「ごみ箱のような特徴と機能を備えているもの」というだけでそのもの自体ではない、という暗黙の了解があり、恣意がある。

名前は現実認識を作り出すだけでなく歪めもする。歪める、という現実解釈もまた恣意ではあるのだけど。

モノは要らない

300円で買える雑誌を300円で配信しても誰も買わない。(携帯向けコンテンツ配信企業役員)

人がお金を払う動機の1つに所有欲がある。本屋でパソコン雑誌を立ち読みしてもお金を出してその雑誌を買わなければ自分のモノにはならない。

でも雑誌という紙束ではなく紙の載っている情報に価値がある。だから自分のモノにしたいのはモノとしての雑誌ではなくその中に含まれる情報。

価値はモノから関係へと移りつつある。モノを所有するよりも所有した上で何ができるかの方が重要になっている。何を持っているか、何年勤めたかという静的な事実よりも今何ができるか今何をするかという動的な現実に対して対価が発生する。

自分のモノにならなくてもかまわない。モノと自分との関係から自分の行動に役立てられる価値を見いだせればそれでいい。むしろモノになると困る。これ以上部屋にモノを置く余裕はない。

整形と捨象の値段

共働き夫婦の場合、睡眠や食事など「生理的生活時間」に約10時間が必要だ。通勤時間も含めた「収入労働時間」は、夫が約11時間30分、妻が約8時間30分。調理や掃除など「家事的生活時間」は夫が約30分、妻が3時
間30分。夫も妻もこれらの時間の合計が約22時間になる。

つまり、1日24時間から生きるために必要な22時間を引いた残り約2時間が、新聞を読み、テレビを楽しみ、家族との団欒を過ごすための「社会的・文化的生活時間」になる。ちなみにこのうち新聞は約15分、テレビ・ラジオは約30分とある。

では、これにインターネット利用時間を当てはめるとどうなるか。それは「社会的・文化的生活時間」の"2時間"のなかでしかない。だからほとんどの人は、1日2時間以上インターネットを使うようなサービスに加入しても仕方がない。2時間以上利用しようとすると、あなたは夜更かし・寝不足に陥ることになる。


テレビにしても新聞にしても、本や雑誌もひっくるめて、すべて編集のプロセスを経ている。これらと同じ括りでインターネットをとらえた場合、この点が決定的に異なる。

例えば、インターネットの掲示板には編集の概念はない。書き込む人が書いた通りそのまま全部が掲載される。すべて当人に委ねられている。書き込んでいる当事者ならではのリアルな息づかいを伝えることができる。

編集は限られた枠の中に収めるための第三者による整形であり捨象である。編集はどこまでいっても当事者になることはできない。ただ、その代わりに選別の代行という付加価値を提供する。

編集なしに2時間だけではとても読み切れるものではない。

不完全な現実

情報社会は、コピーとシミュレーションの世界を基部とします。しかし、誤解してはならないのは、人間に独特の世界とは、観念の世界であり、どのように表現しようと、やはり、コピーとシミュレーションの世界なのです。人間は、この世界を拡大充実させることで進化を遂げてきたのです。

たとえ、観念上の正しさ(観念的現実=第二次現実)と事実上の正しさ(第一次現実)とは違うとしても、人間は、観念世界の拡大充実を図りながら、観念上の正しさを確信して生きることを不可欠とする存在なのです。


自分が知らないことをよく知っていたり、自分が中途半端にしか理解していないことを体系的に把握している人を見ると、つくづく自分の無力さを痛感する。

海は広い。

砂浜で波打ち際を裸足で歩いていると、押し寄せては退いていく波の無数の舌先が足の裏を撫でていくのを感じる。立ち止まって踏みしめていても砂はいとも簡単に波に持ち去られてしまう。

何も残らない。

万巻の書は一瞬のひらめきに及ばない。ひらめきは誰にでも訪れる。何とかそのひらめきを思念の海から引き揚げようと努力するが、そのままの形で引き揚げることはできない。

完全は観念的なものであり、現実は常に不完全。不完全な現実があるからこそ人の存在余地がある。

もっとも、現実そのものは人が作り出したホログラムに過ぎない。

模倣とは

自分で創り出すのではなく、すでにあるものをまねならうこと。他者と類似あるいは同一の行動をとること。幼児の学習過程、社会的流行、さらには高度の文化活動など、人類の文化的・社会的なものにおいて重要な意義をもつ。(『広辞苑』)
EE JUMP(イーイー ジャンプ;つんくプロデュースの2人組のユニット)の3枚目のシングル“おっととっと夏だぜ!”。
歌番組でのパフォーマンスは盛り沢山。

着ている黒装束を冒頭で素速く脱ぎ捨てる、歌のわずかの合間に自分たちのマイクをバックダンサーの1人に預けておいて後からステップの流れの中でそれぞれがバックダンサーと交差するタイミングで回収、静物となったバックダンサーが動き回るEEJUMPとの対照を表現、ユウキが歌うパートの間にソニンが後方でアクロバティックな宙返りを決める。これに詞とメロディーと照明とカメラワークと吹き出す花火とサンバカーニバルと祭のハッピ姿と水着とが複雑に絡み合って独特の世界を作り出す(見たことがない人には正しくイメージが伝わらない・・・)。

1つ1つの世界は既知であっても、それぞれの特徴的な部分を切り取ってきて組み合わせるとそこに新しい世界が現出する。あたかも最初から1枚の完成された絵があったかのように。

模倣とは分解して再び元の構造に組み立て直すこと。分解した後、別の部品を加えたり同じ部品でも組み方を変えるとオリジナルと呼ばれるものができあがる。元の部品をたくさん使うと、オリジナリティーは低下する。もちろん元の部品だけしか使わなくても、組み方次第でまったく別のものになることもある。

そういえばリブロックという知育玩具で遊んでいたことを思い出す。

気づいてからでは遅いことはよくある

相手は今の自分を見てあれこれ判断するが、今の自分は今の努力ではどうにもならない。
今の自分は過去の努力に依っていて、今の努力は未来の自分にしか効かない。
同様に、今の手抜きも未来の自分に転送される。

例えば、自分の仕事で手を抜いたときに誰にも気づかれなかったら、今後もきっと手を抜く。「今回だけはいいだろう」と思っていても、それが未来の自分にも継承される。

気づいていないのは、自分の方かも知れない。